2018年04月17日

説教ーイエスの弟子

説教ーイエスの弟子
去年の暮に図書館で1冊の本を借りました。
”モリー先生との火曜日”です。
203ページの本を読みながら何度も涙しました。
モリー先生とはアメリカのブランダイス大学の社会学教授だったモリー・シュワルツのことです。
この本を書いた人はミッチ・アルボムで、昔モリー・シュワルツ教授の教え子でした。
彼が大学を卒業してから16年ぶりにモリー・シュワルツ先生に再会します。
モリー先生は難病ALSにかかっていました。
この事をテレビで知り16年ぶりにモリー・シュワルツ先生に会いに行きます。
それから、毎週火曜日、モリー・シュワルツの自宅を訪ねました。
それは、だった一人だけの学生のために開かれた”最後の授業”でした。

その授業はモリー・シュワルツが死ぬまで14回に至りました。
人生について、死やまた様々なことについてモリー・シュワルツは語りました。
それを弟子である著者が本として出版したのが”モリー先生との火曜日”です。

一人、二人と私の周りの人がこの世を去っています。
そして、私も死について真剣に考えるようになっています。
死は私達が必ず迎える問題です。
死で人生は終わります。 しかし、モリー先生は本の中でこう言っています。
”死で人生は終わる、しかし、つながりは終わらない。
人間はお互いに愛し合える限りまたその愛し合った気持ちを覚えている限り
死んでも本当に行ってしまうことはない。
作り出した愛はすべてそのまま残っている。
思い出はすべてそのまま残っている。
死んでも生き続けるんだ。
この世にいる間に触れた人、育てたすべての心の中に。”

それでは、今日の聖書箇所に移ります。
ヨハネの福音書の13章の34,35節です。
”あなたがたに新しい戒を与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたが
わたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。”

ヨハネの福音書はイエス様の働きを記録した4つの福音書の中の一つです。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネはそれぞれ違う目線でイエスさまを書いています。
ユダヤ人を対象にしたマタイの福音書、人の子であるイエスを描いたルカの福音書、
そして、神の子であるキリストを強調したヨハネの福音書です。

ヨハネは”イエスが愛された弟子”として表現するほどイエス様と親しい弟子でした。
ガリラヤのかなり裕福な漁師の家の息子でもあります。
イエス様の12弟子の中で唯一自分の寿命を全うした人でもあります。
ヨハネはイエス様から”雷の子”と呼ばれるほど気性の激しい人物でした。
しかし、彼は後に”愛の使徒”として呼ばれるようになります。

ヨハネの福音書13章にはイエス様が十字架に掛かる前に示された愛の模範を伝えています。
それではヨハネの福音書13章の1節から17節を読みます。
さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
”夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、
イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、
ご自分が父から来て父に行くことを知られ、
夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、
ふき始められた。

こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。
「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。
イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが
、あとでわかるようになります。

ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。
イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。
シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。
イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。
全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。
イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。
と言われたのである。

イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。
「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。
わたしはそのような者だからです。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、
あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、
わたしはあなたがたに模範を示したのです。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、
遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。
あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、
あなたがたは祝福されるのです。”

この世を去って父の身元に行くべき時が来たことをイエス様は知りました。
それは、十字架の死を意味します。
そしてイエス様は自分が愛した弟子たちにその愛を残ることろなく示されたと
聖書は記録しています。

イエス様と弟子たちとの最後の夕食が終わってからでした。
イエス様は夕食の席から立ち上がりました。上着を脱ぎ、手ぬぐいを撮って腰にまといました。
そして、たらいに水を入れ、一人ずつ弟子たちの足を洗いました。
それから、腰にまとっていた手ぬぐいで拭きました。
シモン・ペテロは自分の足を洗おうとするイエス様にあまりにも申し訳ないので
断ろうとします。

イエス様が弟子たちの足を洗ったことをまねして時々キリスト教の集会や
クリスチャン家庭でもこの儀式を行うことがあります。
その時、いつも人々はこみ上げる涙と感動を覚えると聞きます。

イエス様の時代、お客様や主人の足を洗うのは奴隷の仕事だと聞いています。
しかし、イエス様は先生だったのに弟子たちの足を洗ってのです。
人の足を洗うとき私達はどのような姿勢を取るのでしょうか?
必ず身を低くしなければなりません。
また、足は常に汚れているとことです。
その足を洗うことは謙遜な気持ちと心がなければできないことです。
そんな事をイエス様は自ら行いました。
そして、”主であり師である私があなた方の足を洗ったのですから
あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。”と弟子たちに言いました。

イエス様が初めての奇跡を行ったのはガリラヤのガナでした。
結婚式がありイエス様と弟子たちやイエス様の母であるマリヤも参加しました。
結婚式に来た人々に出すぶどう酒がなくなったとき、イエス様は水をぶどうに変えたのです。

砂ホコリが多くて暑いイスラエルでは足はいつもホコリで汚れます。
そして、各家庭ではその足を洗うために水瓶がありました。
お客様が来たらその足を洗うのは奴隷の仕事でした。
ガナでの結婚式にぶどう酒がになった水こそその清めのしきたりに使うための水だったのです。

汚くなった足をきれいに洗うために私達はその相手の汚れを触らなければなりません。
そして、その汚れがなくなるまで丁寧に洗わなければなりません。
濡れた足をタオルで拭いてきれいになるまでへりくだった姿勢のままいなければなりません。
そのようなことをイエス様は自らしました。誰かに頼まれても命令されてもいません。
イエス様はただ、自分が愛した人々に自分の愛を示し、
弟子たちもそのように生きるためにしたのです。

イエス様が選び、ともに神様の働きをし、使徒として任命したのが12人の弟子でした。
その12人の弟子の足を一人ずつ洗いました。
その中には自分を裏切った弟子、イスカリオテのユダもいました。
残り11人の弟子さえもイエス様が人々に囚われていったときすべて逃げたのでした。
しかし、イエス様がそんな弟子たちの弱さや裏切りをただ、愛を持って仕えました。

”愛の章”と呼ばれる第一コリント13章には愛についてこのように語っています。
”愛は 寬容であり, 愛は 親切です. また 人をねたみません. 愛は 自慢せず, 高慢になりません.
礼儀に 反することをせず, 自分の 利益を 求めず, 怒らず, 人のした 惡を 思わず,
不正を 喜ばずに 眞理を 喜びます.
すべてをがまんし, すべてを 信じ, すべてを 期待し, すべてを 耐え 忍びます.”

相手の足を洗うことは人の咎や弱さなど受け入れることのできない様々な事を許すことです。
それが愛することでありイエスの弟子と呼ばれることです。互いの間に愛があるとき、
それによってすべての人がイエスの弟子として認めるようになるとイエス様は言っています。
また、愛することを新しい戒めとして私達に与えているのです。

でも私達は今それを実践しているでしょうか?
家族さえもなかなか愛せずにいるのです。
傷つけた言葉をいつまでも覚えて許そうとしないのです。
相手の過ちや弱さを受け入れようとしません。
ときには深まった溝で二度ともとの関係に戻れなくなった人々もいます。

しかし、イエス様はこの世を去るその瞬間まで人々を愛し続けました。
”十字架だ、十字架につけろ”と自分を死に追いやった人々にさえもイエス様は愛しました。
十字架につけられ死にゆく時にもイエス様はこう祈っています。
”父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。”

自分を迫害し苦しめた人々を恨むより彼らの咎や過ちを許すように神様に祈っているのです。
これこそ、愛の完成ではないでしょうか?
命を捨ててまで積み荷とである私達を愛したイエス様の十字架n死こそ
永遠の命を与えるための犠牲であり究極的な愛だったのです。

最後の”モリー先生との火曜日”に載っていた一つのエピソードをご紹介します。
弟子であったミッチ・アルボムはモリー先生が死ぬまで毎週火曜日
モリー先生の自宅を訪問しました。
そして、人生について、行き方について様々な話を聞きました。
そんなある日、ミッチ・アルボムは部屋の橋のある高い棚の上に飾ってあった
胸像について聞きました。
40代のモリーの姿を刻んだブロンズ像でした。
それは、モリー先生の友達だったノーマンという人が作ったものでした。
30年前に友達ノーマンが自分の家にモリー先生をまねいて何週間もかけて
その胸像を作ってくれたのです。
しかし、あることを栄に二人の友情は終わりました。

モリーの妻が大変な手術を受けるようになったとき、友達だったノーマンは
電話一本くれず見舞いにも来ませんでした。
それから、2,3回ノーマンと顔を合わせる機会がありました。
ノーマンはその度仲直りしようとしましたがモリー先生は許しませんでした。
その弁解に満足できなかったのです。
許すにはあまりにもプライドが高かったのです。

モリー先生は難病にかかる数年前に友達だったノーマンは癌になりました。
しかし、モーリは最後までノーマンのことが許されず見舞いにも行かず
仲直りすることなくノーマンはなくなりました。

モリーはそのことがどれほど辛く後悔しているかと涙を流しながら
ミッチ・アルボムにこう言ったのです。
”死ぬ前に人を許せ、自分を許せ、やらなかった全てについて、
やるべきなのにやらなかったことすべてについて自分もゆるせ”

過ぎたことをいつまでくよくよ悔やんでも始まりません。
仲直りすること、自分とそれから周囲の全てと仲直りしなければなりません。
人は生きている間に色々な過ちを犯します。
自分が犯した過ちも他人から受けた過ちも許さなければなりません。
人生はあまりにも短かく、いつまでも時間は待ってはくれません。

約2千年前にイスラエルの小さい町で生まれ育ったイエスさまは33年の短い人生を生きました。
イエス様の人生は十字架の死で終わりました。
しかし、今もその愛は人類に繋がれています。
罪人である私達を救うために流した血は今も私達にその愛を伝えています。

そして、罪赦されたイエス様の弟子として私達はその愛を実行して生きるものになりましょう。
イエス様が弟子たちの汚れた足を洗い、仕えたようにお互いの弱さを許すものになりましょう。
そして、私達の愛によって人々からイエスの弟子であると認められる存在になりましょう。

愛することができる今、許すことができる今、お互いを愛し、許しましょう。
自分を許し、他人を許しましょう。
お互い愛することでイエス様の弟子になりましょう。




  

Posted by 青い鳥 at 13:28Comments(0)説教

2018年03月28日

やくざになる人

やくざになる人
インターネットの調子が悪く、3日連続インターネット会社の職員が家を訪問しました。
マンションに設置した機器の不具合らしく思いもよらなかった訪問客のせいで大慌てしました。
部屋中にチラがっていたものを移動したり隠したりとパニック状態でした。

機器の取り外しと設置など根本的な処置が必要なのでマンションの管理会社に連絡したり
入居者への案内など時間がかかりそうです。
インターネット速度が早くなると言って数年前から利用しているインターネット会社です。
最近動画を見ていると急にぐるぐる回る円が出てきてイライラしていたのですが
全くネットが使えない状態になり本当にネットにどっぷりハマっていた自分に気づきました。

何度もスマホを覗いたりインターネット電話を確認したりして自分が情けなくなりました。
それでネットを使うのは諦めて久しぶりにテレビの録画番組を見ました。
NHKテレビの”アナザーストーリーズ運命の分岐点”です。
神戸のヤクザ組織山口組の闘争劇を扱った内容です。

個人的にヤクザから牧師になった人を3人知っています。
ヤクザについての知識はヤクザを辞めるときには小指を落とされるとか
入れ墨のことぐらいしか知りません。
口が汚い人もいましたが穏やかで紳士的な態度など
全くヤクザに見えない人もいて驚きました。

山口組の4代組長まで登り上がった竹中という人の射殺事件や
2つの組に別れたヤクザ組織の暴力事件に関わることになった
人々の話と内容は興味深かったのです。
そして、山口組の顧問弁護士になってヤクザを身近で見て接していた
山ノ内弁護士の話は考えさせられるものがありました。

6法を知り尽くしながらも最後まで暴力という手段で生きた人、
男の仕事の中で命がかかってしまうのはヤクザしかないと
それが面白いと言ってヤクザの日々を生き結局殺された人、
人生のかけっぷちで極端な選択をしてしまった人々や
覚醒剤にハマり年を取ってやっと平凡な日々を生きる人など
ヤクザという道を選んだ人々の話は心を重苦しくしました。

言われなげれば絶対ヤクザだったとわからなかった人々、
彼らはどうしてやくざになったでしょうか?

番組の中では”ヤクザと日本人という本の””ヤクザ集団の構成層は
いつの時代においても社会から疎外された被差別階層であった”という文が紹介されています。
やくざになって犯罪に手を染め、時には薬物に手を出す組員たちは
国籍や土地のことで差別を受けたり貧乏人の子で学校に給食を持っていくことのできない子供で
みんなわけがあってワケありの人間がやくざになってくる、
ヤクザにならざるを得なかった生い立ちにある意味同情すると山ノ内弁護士は言います。

彼もやくざになった人々に似た生い立ちの中でただ一つだけ違うことがありました。
苦労しながらも息子を信じ応援し続けた母親がいたのです。

生涯警察官として生き退職した伯父は生涯忘れられない言葉を残しました。
”問題児はいない、問題家庭があるだけだ。”
現役時代、様々な犯罪者たちに出会い取り調べていく中で悟ったことだと思います。

そして、山ノ内弁護士も似たような言葉を語ります。
親がそもそも子供に愛情が全然ない、うまんといたら良かったいうような
生んで迷惑してる親の愛情の欠落、親の愛情がなかった子供がやくざになっていくと。

最初からヤクザになりたくてなった人はいないでしょう。
それそれなにか自分なりの理由や言い訳があるでしょう。
望まれてない親のもとに生まれた事や様々な理由で受けた差別や
傷などが一人の少年を光の世界から暗闇の世界に導く原因になっていくのかもしれません。
もし、一人でも彼を愛し、支え、信じる人がいたらそんな道への誘惑から勝てたかもしれません。
どうか、私達一人ひとりが誰かの道を光の世界に導く存在でありますように!!!!

  

Posted by 青い鳥 at 22:51Comments(0)

2018年03月20日

本ー7つのステップでスマホを手放す(退屈すれば脳はひらめく)

本ー7つのステップでスマホを手放す(退屈すれば脳はひらめく)
4年前に初めてスマホを手にしました。あっという間にスマホの魔力に陥りました。
次から次へとアプリをインストールして試す日々が始まりました。
毎日ユーチューブにはまり、寝る時間まで惜しんで動画を見たり聞いたりしました。
フェィスブックの”いいね”を確認し、写真をアップロードするために
きれいな風景や外食の度、習慣のようにスマホで写真を取りました。

そんな毎日が続き、酷使されたせいか寿命になったせいかとうとうスマホの調子が悪くなりました。
買い替えを真剣に考えましたが膨らんできたバッテリーを交換して、まだかろうじて
動くスマホを今は電話機能だけに留めて大事に使っています。
調子が悪くなり仕方なくスマホから離れるようになっていますが
いっときスマホの虜になっていた私が心から頷きながら読んだ本があります。
”7つのステップでスマホを手放す(退屈すれば脳はひらめく)”です。

「本の中からの引用」
2015年2月、ニューヨークのラジオ局が配信するポッドキャスト番組が
1週間に続く7つのプロジェクトを企画し、2万人以上のリスナーが参加しました。
毎日ひとつずつレッスンをこなしてスマホを手放し、創造性を取り戻そうという取り組みは
大きな反響を呼び、大勢の参加者がありました。
インターネット、 ゲーム、スマホやソーシャルメディアへの依存や中毒に薄々気づきながらも
自分を制御できない人々がそんな状況から脱出するために参加し、自分を顧みる経験をしました。

ニューヨークのラジオ局のディレクターでホストを務める著者マヌーシュ・ゾロモディ
が出産後子育てに入り気ままにスマホやネット端末装置にアクセスできない
退屈な日々の中で前よりもっと創造力豊かに動く自分の脳を発見しました。
そして、スマホから離れてもっと創造的な時間を過ごすために
企画したラジオ局のポッドキャスト番組からこの本が生まれました。

まず、退屈な時間がマインドワンダリングへの入り口であると言います。
マインドワンダリングは私達が退屈するときや何もしてないときに脳が行う活動で
そのおかげでシナプスとシナプスがつながりだし、夕食の献立や地球温暖化への革新的な対策や
その他あらゆる難問を解決できるようになるようです。

私達はインターネットによって様々な人や場所、考え方にかつてないほど
自由にアクセスできるようになりました。
距離や文化、言葉の障壁を取りはらうインターネットの威力は大いに賞賛されてきました。
インターネットは視野を広げたいと願う人々の要望に答えます。
しかし、一方で大多数の人々の視野を狭める原因にもなっています。

テクノロジーのおかげでいつでもどこでも仕事ができるようになったけれど
同時にそのせいで集中力が絶えず途切れる羽目になりました。
インスタントメッセージやメールの着信通知でしょっちゅう仕事が中断されるのです。
情報は国際規模で飛び交っていますが、実のところ我々の関心は
極めて局所的で仲間内に限られたものになっています。

また、注意力の低下、記憶力の低下等が挙げられています。
スマホで写真ばかり撮っていると脳は記憶することを怠けてしまうと言います。
そして、文章の読み方そのものが変わっています。
リンクやスクロールに慣れると長い文章や難しい文章をじっくり考えながら読み通す力が衰えます。
それは、結局テクノロジー産業の食い物にされることにつながると警告しています。

著者が指摘するテクノロジーの問題点は人と人のつながりが希薄になり、
スマホが見えるところにあるだけで、目の前にいる相手に共感しにくくなるので
そんな人々が作り上げている社会は真剣な交流のない人間関係を作ってしまうのです。

2014年に発表された”iphonenの影響、そしてスマホが存在する状況での対面による社会的交流”
という研究の中でヴァージニア工科大学の研究者たちはスマホがあるだけで
二人の間に共感が生まれにくくなると報告しています。
フィールド実験で100組のペアが10分間会話をしているのを離れたところで観察しました。
年齢、性別、人種、民族、その場の雰囲気にかかわらず、スマホがない時の会話は、
あるときに比べて遥かに上質だったと発表しています。
スマホがあるだけで会話の質が下がるし、誰かといるのにスマホに気を取られてしまう
今の現状を伝えています。

実際に著者は自分の弟との会話の様子を書いています。
弟がスタップとメールしながらでもちゃんと会話をしていると言われると
頭にくると著者は言います。
“ああそうだね、もちろん”といい加減に相槌をうつ弟がやっとスマホを置き、
“待って、なんだって、聞きそびれちゃった”聞くとき著者は
“何度も言わせないでよ、私も忙しいんだから”とつぶやくのです。

大人同士でもスマホをいじりながらの会話は人々を傷つけますが
子供にはもっと大きな影響を残します。

1970年代、エドワード・トロニックという発達心理学者が幼児と母親を向き合わせて
観察した”無表情実験”はとても気になります。
実験は普段通りの接し型をしていた幼児と母親が無表情の時間帯になると
母親は3分間淡々とした表情で赤ちゃんに反応せずその後
またいつもどおりの母と子の関係に戻ります。

ある母親が無表情を保った3分間に赤ちゃんはどんな様子を見せたでしょうか?
赤ちゃんはたちまち真顔になりそれから用心するような表情になりました。
そして、いつもの双方向のやり取りをしようと母親に何度も働きかけました。
それでもどうにもならないと、今度は諦め、絶望的な表情になって内にこもり、
母親から体ごと顔を背けたのです。

赤ちゃんのこの反応は類似する実験で80回以上も再現され
幼児期に接する大人が無表情だとその子の将来の行動や愛情の深さなどに
影響があると警告しています。

MIT教授の社会学者で臨床心理学者のシェーリー・タークルは本”つながっていても孤独”、”
一緒にいてもスマホ”で直接あって話すより、バーチャルな心理カウンセリングやメールが
好まれるのは人間的な感受性や会話をあまり大切にしない社会の流れのせいだと言っています。
会話というのは前の会話を覚えている相手とするもの、過去の流れと共感があるからこそ
会話が成り立つと言います。

そして、タークルはこのように警告しています。
”他人と顔を突き合わせながら無視されるのが子どもたちにとって有害なのは
大人にとっても同じです。関わろうとしている相手がほとんど共感を示さず、、
まるで関わりたくないとでもいうように文字通り顔を背け、何か他のことに
気を取られているとしたら耐えられないでしょう。
実際、私達は、今互いにずっとそうしているんです。
それが社会の新たな風潮になっています。
私達はこうした人間関係についてよく考え、デバイスではなく、
絆を結びたいと願う相手へと再び心を向けるべきです。”

テクノロジーは注意散漫をひき起こす史上最大の原因になりました。
それをどう使うか意識を高め、ふさわしい選択をする能力を養わなければならない、
優先順位をつけて、自分にとって何が大切かを探す時間とゆとりを自分に与えること
それぞれの目標に向かって着実に前進しているかどうか、きちんとチェックすることを
著者は助言します。

よほど気をつけていないとユーザーの時間をできる限り奪おうとする
優秀な頭脳集団の思う壺になり、そして、一日のスキマ時間をすべて奪われ、
退屈する時間がなくなり、独創性もなくなると言います。
ネットにダラダラと時間を費やすことはジャンクフード並の情報を貪り続けることで
大切なのは意志を持ってテクノロジーを利用すること、
テクノロジーを優秀な召し使いにしなければならないと著者は主張します。

さらに、一番大きな代償は忍耐を失ったことだと著者は書いています。
相手の話を最後まで聞く忍耐、難しい文章の複雑な論点を理解するために
一、二度ではなく三度読む忍耐を失いつつあります。

24時間繋がっていてどこでも人々が夢中になっているインターネットは
結局薬物とギャンブル、ショッピング、ポルノを一つにしたようなものと厳しく表現した人がいます。
しかし、人々はそのネットに繋がっているスマホを手放すことができません。

そして、この本の中には実際に生活で支障をきたしている人々を面白く掲げています。
ゲームにハマりすぎてちょっと情けない著者,せっかく娘の遠足に参加したのに
フェイスブックをアップするのに夢中で1時間も口を利かなかったお父さん、
何年も夜な夜なゲームをし続けてゾンビのようになってしまったハーバード大出身のお父さん、
そして、ネットの世界に繋がれているスマホから離れられない自分にもどかしさを感じて
ラジオ局の企画に参加した2万人もの人々や中毒予備軍の私達がいるのです。

人々の人生をますます占領してくるスマホを制御するために著者は幾つかの助言をしています。
頭痛の種、使いすぎてるアプリ、逃避のために使っている,
大切な何かを犠牲にしているなにか、後ろめたさを感じている何か
例のアプリやアカウントを削除せよと言います。
ゲームだけではなくソーシャルメディア、天気予報、ウィキペディアなどなど
それぞれが問題だと思っている何かを思いっきり削除するように著者は言います。

これからの世代は黙読と流し読みの両方の能力を身につけるべきであり
情報の記録には手書きのメモが勧めでビデオゲームをするときはタイマーをセットするように
時間をきっちり区切ってプレイすればゲームのしすぎや現実逃避を防げるし、
脳に良い影響を与えると著者は助言します。

ゲームは20分がベストでゲームをするにも適度な時間を知らなければならないので
タイマーかなにかを使ってゲームの時間を自分でコントロールできないと、
やがて依存症になり解決しようとしていていた問題をむしろ悪化させてしまうと言います。
そして、望ましくない行動を取ってしまうものへのアクセスを少しだけ面倒にするなど
スマホから離れるように環境を変えバランスの取れたテクノロジーの使い方をして
本当に大切なものとデジタル機器が折り合うようにできるだけ工夫することを言っています。

グレッグ・マキューンという人が顧客に教える時間の使い方はとても参考になります。
自分にとって何が一番大切かを見極め、それを中心に人生を設計することを目指す。
第一段階本当に重要なことが何かを見極める時間を作る
第二段階大事ではないことをすべて削除する
第三段階自由になった資源を再分配し、もっと重要と判断したことを追求することにそれを用いる。

墓石に”メールをチェックしていた男”として書かれる人生、
”リンクをクリックして、あとで読もうとたくさんの記事を保存した女”
だが実際に読むことはなかった人生にならないために
今、私達はスマホとの付き合い方を本当に真剣に振り返る必要があるのかもしれません。
  

Posted by 青い鳥 at 17:15Comments(0)

2018年03月07日

本ーもリー先生との火曜日

本ーモリー先生との火曜日
英語で書かれた”モリー先生との火曜日”を古本屋で見つけて買ってきたのは数年前のことです。
しかし、その本はいまだに読まれず本棚にあるままです。
中国語とヘブライ語、古代ギリシア語の勉強で過ぎていくこの年末、
そんな毎日にも少し飽きて借りてきたのがこの本です。

著者はスポーツコラムニストとして活躍しているミッチ・アルボムです。
彼が難病ALSに侵されているかつての大学の恩師、モリー先生と16年ぶりに再会し、
病で徐々に弱っていく老教授と人生の様々な主題について語りあった内容をまとめたのがこの本です。

毎週火曜日に行った一人の学生に向けての老教授の最後の授業、
二人だけの講義録を最後の論文と呼んでいました。
徐々に体の機能を失っていく中でそんな自分の状態に苛立ち、不平や不満を言って
過ごすよりは、人々に愛を注ぎ自分の死にも真剣に向き合った先生の姿と生き方に
何度も涙しました。

一人、二人と周りの人がこの世を去っていく中で私も死について真剣に
考えるようになっています。
そんな日々の中でこの本は死と人生についてとても参考になりました。
いずれは死ぬということを認めていつ死んでもいいように準備すること。
そうすればより真実に人生に取り込むことができる、
今日がその日か?用意はいいか?するべきことをすべてやっているか
なりたい人になっているかを毎日自分に問うことによって死ぬ準備をしていると
答えたモリーの話は心に響きます。

搾取することなく人に貢献できる場として選んだ道が研究の世界だという
彼の選択も何だか悲しいものがあります。
50年代はじめテェスナットーロッチー精神病院で精神病患者を観察し、
記録する仕事を通して知り、悟った人間に対する愛と深い洞察力は
彼の人柄をよく表しています。

テェスナットーロッチー精神病院には一日中金切り声を上げる患者、一晩中泣き叫ぶ患者、
下着を汚す患者、頑として食べようとしない患者などがいました。
そして、毎日自分の部屋から出て通路のタイルの床にうつ伏せて
何時間も寝ている中年の女性患者もいました。
医者も看護師もその患者に気づきながら、避けて通っていました。
夕方までそのままの格好で誰にも話しかけず、みんなからも無視されている
彼女のことがあまりにも不憫でモリーは彼女が寝ている床に座り、寄り添って
なんとか惨めな状態から引き出そうとこころみました。
そして、彼女を座らせ、部屋に戻らせることができたのです。

研究を続けた5年の間に彼は患者と仲良くなりました。
この病院にいられて幸せだといった女性患者もいました。
誰かれ構わず唾を吐けかける人が彼を”私の友達”とまで呼んでくれました。
二人は毎日話し合っていました。
しかし、ある時、その女性患者が脱走して近所の店の奥に隠れたので
病院の職員から彼女を連れ戻すのに手を貸してくれと頼まれました。

駆けつけた彼を見た時、彼女はモリーにこう言い放ったのです。
”やっぱりあんたも仲間なのか?”
”仲間って誰の?”
”看守たち”

テェスナットーロッチー精神病院にいる患者の多くは裕福な家庭に生まれ経済的に恵まれていました。
しかし、ほとんどみな毎日の生活で拒否され、無視され、存在しない者同然の気持ちを味わい、
周囲の思いやりも欠けていました。
そして、モリーは金では幸福や満足は買えないという教訓を得たのです。

毎週火曜日にモリーを尋ねる著者に対しても他の誰かと一緒にいるときも
モリーはまっすぐ相手の目を見て、その相手がこの世で
ただ一人の人間であるかのように耳を傾けました。
恐ろしい話をするとモリーの目はうるみ、馬鹿なダジャレには面白そうに目元にシワを寄せて
いつも感情を素直に表しました。
そして、モリーは言います。
”誰かと一緒にいるときはまさにいっしょでなければならない、
二人の間に進行していることだけに気持ちを集中している、
君に向かって話をし、君のことだけを考えている”

スマホに夢中になり生半可な答えや返事をしている人々が増えてる
今の世の中で、モリーの言葉には考えさせられます。

モリーの生き方を決めた父の死の話にも悲しいものがあります。
小言をいい、育ててくれた人、働くことを教わった人、話をしてほしかったのに黙っていた人、
母の思い出をみんなと分かち合いたいのに黙っていろといった人が彼の父でした。
その父は強盗に襲われ心臓麻痺で死にました。
身元確認のために駆けつけた死体保管所の硝子窓越しにお父さんの亡骸を見ながら
自分は父とは違う人生をいきたい、違う死を迎えようと彼は心に決めたのです。
”たくさん抱いて、キスして、喋って、笑って、みんなにサヨナラを全部忘れずに言うと。”
そして、モリーはまさにその約束を実践していきました。

毎日が忙しく過ぎていく中で人々はますます急ぐようになっています。
そして、心の余裕をなくしていきます。
車の運転にまつわるモリーの話はそんな人々に笑顔を与えています。
誰かが追い越そうとするとモリーは手を上げていかにもだめのゼスチャーをします。
指を立ててばかにするような仕草をして手を振って先にいかせてニッコリ笑うのです。
すると向こうからも笑いが帰ってくるといいます。
”私は車に乗っている時、そんなに急ぐ必要を感じない、エネルギーは人間同士で使いたい”
とモリーは言います。

そんなモリーの人生でも一つ悲しい思い出がありました。
モリーの部屋の端にある高い棚の上に載せた胸像は40代のモリーのブロンズの像でした。
30年前に友達ノーマンがケンブリッジの家に招待され地下室で何週間もかけて作ってくれたのです。
しかし、親しくしていた二人の友情は壊れました。
モリーの妻のシャーロットが大変な手術をしたのに、
親友のノーマンも奥さんも連絡してこなかったのです。
手術のことは知っていたのに電話で経過がとうなったかも聞いてこなかった事で縁が切れました

それから、2,3回ノーマンと顔を合わせる機会がありました。
ノーマンはそのたびに仲直りしようとしましたが結局モリーは許しませんでした。
その弁解に満足できなかったのです。許すにはあまりにもプライドが高かったのです。
モリーは自分が死の病にかかりノーマンがガンで死んだときも会いに行かず
許さなかった事を悔やみ、それががどんなに辛いかを語ります。

そして、死ぬ前に人を許せ、自分を許せと著者に言います。
他人と自分を許すことを語ります。
”やらなかった全てについて、やるべきなのにやらなかったこと
すべてについて自分もゆるさなければならないといいます。
過ぎたことをいつまでくよくよ悔やんでも始まらない。
仲直りすること、自分とそれから周囲の全てと仲直りしなければいけない
自分を許せ、人を許せ、待ってはいられない。”

人は生きている間に色々な過ちを犯します。
自分が犯した過ちも他人から受けた過ちも許さなければなりません。
人生はあまりにも短かく、いつまでも時間は待ってはくれないので。

結びの言葉でミッチが書き残したものがあります。
”もっと心を開くこと、マスメディアなどを通して流される価値観にとらわれないこと、
愛する人が話をしているときにはこれが最後のつもりで注意を払うこと
いずれではなくすぐにでも飛行機に乗ってマサチューセッツ州ウエスト
老紳士モリー・シュワルツ教授が病気にかかって踊れなくなる前に会いに行くこと”

人生はもっと大事にしなければならないことがどれほどあるでしょうか。
私達がそれに気づくのはあまりにも遅いのです。
けれどもモリーは私たちに生き方を振りがえる機会を与えています。
彼は人生に手遅れというものはないと、最後のサヨナラを言うまで変わり続けたのです。

死は私達が必ず迎える問題です。
死で人生は終わります。
しかし、モリーは言います。
”死で人生は終わる、しかし、つながりは終わらない。
人間はお互いに愛し合える限り、またその愛し合った気持ちを覚えている限り、
死んでも本当に行ってしまうことはない、またその愛し合った気持ちを覚えている限り、
死んでも本当にいってしまうことはない、作り出した愛は全てそのまま残っている、
思い出は全てそのまま残っている、死んでも生きつづけるんだ、
この世にいる間に触れた人、育てたすべての心のなかに。”

週に一度火曜日にモリーの自宅で行われた最後の授業
人生の意味と経験を元に綴られた講義はモリーが死んだ今も
彼の生き方と彼が残した言葉は人々の生き方に影響を与えているのです。
  

Posted by 青い鳥 at 23:07Comments(0)

2018年02月16日

本ー不屈の魂ユダヤ魂(ヘブライ語の父ベン・イェフダーの生涯)

本ー不屈の魂ユダヤ魂(ヘブライ語の父ベン・イェフダーの生涯)
6人の人々に進められて入学した神学校で3年間聖書を学びました。
しかし、聖書を学べば学ぶほど疑問もまた増えていきました。
翻訳を通して接する言葉の壁によるものもあれば
違う風土や文化、価値観の人々が全く違う言語体制のもとで
書いた書物を現代の私が翻訳の力で読むそのギャップを
埋めることは簡単ではありませんでした。

そんなもどかしさの中で聖書を元来の言語である
ヘブライ語やギリシャ語で読みたいなとずっと思っていました。
幸いにもヘブライ語を学ぶ機会があり時間を作って出かけています。

点と線でできていて発音もなかなか馴染めないヘブライ語を学んでいます。
難しい言葉への試みは22文字のヘブライ語を覚えるのも時間がかかっています。
やっとそれぞれの文字の区別がつき子音と母音を合わせて
少しはヘブライ語らしい音を出すまでになりました。

1ヶ月に1回の授業で必死になって学んでいますが覚えては忘れていく日々です。
授業では補いきれない部分を一人で解決するために
ヘブライ語を学ぶための教材を図書館で幾つか借りてきました。
殆どの本がミルトスという出版社から出ています。

教材の後ろに出版された本の紹介が幾つか載っていました。
その中の一冊が”不屈の魂ユダヤ魂(ヘブライ語の父ベン・イェフダーの生涯)”でした。
ヘブライ語を現代にイスラエル人が使える言葉として蘇らせた人の話でした。
予約して他の図書館から取り寄せて読みました。

ヘブライ語から中国語、ギリシャ語まで勉強する中で
444ページの本を読み終わるまでにほぼ3ヶ月がかかりました。
2千年近く使ってない言葉を蘇らせた一人のユダヤ人の話は
驚きと感動の連続でした。

41年間狂信者と呼ばれた彼のヘブライ語への歩みは想像の絶するものでした。
長男であるベン・ツィオンをヘブライ語だけに育てるために
彼が心かけた環境や行動は並大抵のことではありません。
そして、そんな彼の努力は2千年ぶりにヘブライ語を母国語として
話した子供を育てることができました。

聖書の祈祷文としてしか使えなかった言葉は見事に
人々が実際に生活の言葉として使えるようになったのです。
生涯自分の命を縮ませながら作ったヘブライ語辞典は彼の死後
妻であるヘムダと支持者達によって16巻の大辞典として出版されました。

1冊1冊辞典を作るために夫婦で大陸を渡りお金の工面のために
動き回る状況が目に取るように著者は書いています。
知らなかったイスラエルの国の成り立ちがこの人の生き方とともに
手に取るようにわかるようになります。

国が無くなり生きるために全世界に広がり数々の迫害と苦難の道をだどった
ユダヤ人が聖地に再び定住する運動とヘブライ語を話し言葉として
復活させる運動の中心地を中東の何もない砂漠に作ろうと思い
その実現のために歩んだ日々は色々な試練と犠牲の末
ついに実現されました。

ベン・イェフダーはその夢の実現のためにほぼ全生涯を捧げました。
その夢を実現するために費やした時間と努力の数々の
彼が掲げたモット”時は短く、なすべきことはあまりにも大きい”
によって駆り立てられました。

16冊に登る大辞典を作れるほどの資料を一人の人が集めました。
その仕事ぶりは一つのヘブライ語単語にフランス語、ドイツ語、英語の訳語
アラビア語、アッシリア語、アラム語、ギリシア語、ラテン語、
言葉の定義、同義語、類義語まで羅列するほど徹底ぶりでした。

神様の言葉である聖書のヘブライ語を人間が使っては神聖冒涜だとまで
反対する人々から経済的な問題また彼の生き方などに対する
人々の偏見や誤解など常に彼のヘブライ語に対する活動は試練に会いました。
しかし、彼は挫けず自分が目指した夢に向かって進んでいきました。
そして、それは彼の死とともに証明されました。

狂信者と呼ばれた一人の葬儀には3万人のユダヤ人が遺体について
墓地までついてきました。
パレスチナは全国的に3日間彼の死のために喪に服することを命じ
彼の葬儀は国葬として行われました。
彼の墓地にかかる門にはこのように記されているといいます。
”信仰熱き狂信者エリエゼル・ベン・イェフダーここに眠る”

全16巻ヘブライ語大辞典を作り上げた彼が亡くなる直前に
書いていたのは”魂”という単語のカードでした。
まさに、彼の生涯は不屈の魂の持ち主でありました。
ご興味のある方はぜひご一読を!!!

ヘブライ語を2千年ぶりに蘇らせた人がいます。
16巻に及ぶ大辞典の資料を書き上げた人がいます。
彼に比べれば私のヘブライ語に対する悩みは比べるものにもなりません。
いつか、私もヘブライ語で聖書の奥義を悟る日が
早く訪れることを祈っています。
  

Posted by 青い鳥 at 10:10Comments(0)

2018年01月27日

説教ー神の愛、許す愛

説教ー神の愛、許す愛
こんばんは。金曜祈祷会に来られたみなさんを心から歓迎します。
私は数年前に神学校を卒業しました。
入学したときは聖書について全く知りませんでした。
毎日、授業のたび聖書箇所を探すのが大変でした。
神学校では聖書箇所をみんな声を揃えて読むようにしていたからです。

他の同級生や先輩たちがあまりにも素早く聖書箇所を見つけるので
何かいい方法はないか悩みました。
それで文房具屋に行って色とりどりの付箋を買ってきました。
創世記からヨハネの黙示録まで66巻のタイトルを付箋に書いて貼りました。
重ならないように貼るのも一仕事でした。

今は聖書箇所を見つけるのも少しはましになりました。
しかし、引用したいところがなかなか見つからなくて
もどかしい思いをしています。
卒業してからは説教を語る機会もなくなったので
久しぶりに皆さんの前で説教をするので緊張しています。

それでは今日の聖書箇所に移ります。
ルカの福音書6章20節から38節までをお読みします。
20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。
「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。
21 いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。
いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。
22 人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、
辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
23 その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。
24 しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。
25 いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。
いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。
26 みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、
にせ預言者たちに同じことをしたのです。
27 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。
あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。
28 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。
29 あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。
上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。
30 すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。
31 自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。
32 自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。
33 自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、
あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、
同じことをしています。
34 返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。
35 ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。
36 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。
37 さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

ルカの福音書6章には安息日に起きた2つの事件と12弟子の任命
そして、山上の垂訓という話が書かれています。
イエス様が語った幸いな人と哀れな人はこの世の基準とは全く正反対です。
この世に生きている私達は富んでいる人、食べ飽きている人、今笑っている人、
皆の人から褒められる人を幸いだと思います。
しかし、イエス様は今貧しくても今飢えていても今泣いていても人の子
つまりイエス様のために人々から憎まれ、除名され、辱められ名前が
悪しざまにけなされてもそれこそ幸いであると語りました。
そして、そんな試練を乗り越えて勝利したものへの報いについて語っています。

るかの福音書6章23節にはこう書かれています。
”その日には喜びなさい、
躍り上がって喜びなさい、
天ではあなた方の報いは大きいから。
彼らの父祖たちも預言者たちに同じことをしたのです。”

イエス様の弟子として生きることは容易いことではありません。
そこには様々な迫害や苦難もあります。
ときには命の危険さえもあります。
実際、イエス様の12弟子のうち10人が殉教しました。
また初代教会から今までイエスを信じたことで
どれほど大勢の人々が命を失ったでしょうか。

時には愛される家族や兄弟などの死の前でその悲劇をもたらした人への憎しみで
我を忘れてしまった人がいるのかもしれません。
そんな弱い私達をよく知っていたイエス様は12節にも渡る内容で
”あなたの敵を愛しなさい”と語りました。

しかし、天国でどれほど素晴らしい報いが私達を待っているとしても
イエス様を信じることで私達がこの世で被る様々な艱難や迫害の時
愛を持って生きるのは簡単ではありません。

もし、あなたに一人息子がいたとしましょう。
ある日、大事に育てたその独り子がいなくなりました。
数日後、その子は無残な姿で現れました。
お金欲しさに誘拐され殺されたのです。
あなたはその犯人をたやすく許せますか?
正直言って私がもしそのお母さんだったら許す自信がありません。

しかし、毎週捧げる礼拝の中で唱える主の祈りには
心を刺すような内容があります。
”我らに罪を犯す者を我らが許す如く我らの罪おも許し給え。”

主の祈りはイエス様が生きている時弟子たちに直接教えた祈りです。
どのように祈るべきかとイエス様に聞いた弟子たちに語られた内容です。
そこには神様を褒め称え、神様の国がこの地に訪れることを願い
日々の生活を守ってくれることを祈っています。

しかし、その内容に一つだけ条件付きの祈りが入っています。
我らの罪を許し給えとイエス様は言いませんでした。
我らに罪を犯す者を我らが許すごとくという
とても担いきれない文句を付け加えているのです。

許すことには軽いものからとてつもないほど重いものまであります。
”ゴメンね。”と謝って、”もういいよ。”と笑顔で済ますものもあれば
最後まで相手を許すことができず自分を破滅に追い込むほど
相手を許すことができないことさえあるのです。

マタイの福音書18章にはペテロがこの罪の許しについてイエス様に聞いています。
”主よ、兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで許すべきでしょうか、
七度まででしょうか”
そして、イエス様はこのように答えています。
”七度までなどとは私は言いません。七度を七十倍するまで”といいます。

それからイエス様は一つの例え話を言いました。
一万タラントの借りのあるしもべと百デナリの借りのあるしもべの話です。
返すことのできない莫大な借りを王様から許してもらったしもべが
自分が貸した少しの借りの仲間にたいして哀れみを施しませんでした。
そして、私達はまさに一万タラントの借りのあるしもべのように
払いきれない罪から神様の許しを得ています。
担いきれない罪の代価をイエス様の十字架の贖いで許されたのです。
そんな私達が同じ人間である人々のちっぽけな罪を許さないなら
神様はこのように怒るでしょう。
”私がお前を哀れんでやったようにお前も仲間を哀れんでやるべきではないか”

それではコリーテンブムの話で終わります。
ヒットラーの時代ガス室で600万人のユダヤ人が殺されたと聞いています。
その時、不思議なことにコリーテンブムは生き残りました。
彼女はユダヤ人で時計屋を経営していた父の四人の子供の一人で末っ子でした。
ユダヤ人への迫害がひどかった時、彼女の父親は子供部屋の裏にある
秘密の部屋にユダヤ人たちを隠しました。
クローゼットの小さい戸の裏に7人から8人ぐらいの人が
立ったままなら入れる空間がありました。
しかし、誰かの密告により彼女と彼女のお姉さんのベップ、
そして、84歳のお父さんは収容所に送られました。
年寄りのお父さんは間もなく死に、彼女のお姉さんも病にかかり
収容所で亡くなりました。

お姉さんの死から1週間後に彼女は解放されました。
しかし、彼女が解放された1週間の間に彼女と同じ年の女性たち
すべてがガス室で殺されたのです。
数年後彼女が再びその収容所を訪れたこと知ったことは
彼女は小さいな書類上のミスによって死を免れたのでした。

彼女はお父さんとお姉さんを殺し、死ぬほど自分を苦しめたドイツ人たちを
なかなか許せませんでした。
しかし、ある日、祈りの中で神様の声を聞きました。
罪責感で苦しめられているドイツ人に神様の許しを伝えるように言われたのです。
なかなか従えない気持ちで彼女はドイヅ全国を回りながら
神様の許しの愛を伝えました。
そして、多くのドイツ人たちが神様の愛によって生きる力を得ました。
彼女が行く講演会場にはいつも人々が彼女に握手を求めました。
ある日、講演が終わり握手を求めている人々をいたわりながら
歩いていた彼女の体はこわばりました。

人々の行列の中に彼女を死ぬほど苦しめた拷問官が握手を求めていたのです。
彼女は心のなかで”絶対あの人を許しません。”と思っていました。
しかし、”私はあなたのために死にました。
私があの人を許したのであなたも許しなさい。”と神様が言ったのです。
彼女は恐る恐る手を差し出しました。
その時、彼女の心に驚くほどの平安と喜びが湧き上がったのです。
自分自身どうしても許せなった憎むべきドイツ人の拷問官を
許すようにさせたのは神の愛でした。

彼女の心を平安に満たした神の愛についてご存じですか?
日本では毎年12月近くになると商店街やデパートの前に
華やかなツリーが飾られ楽しいクリスマスキャロルが流れます。
そして、クリスマスにはみんなケーキを買って食べたりプレゼントしたり
家族や恋人たちが楽しい時間を過ごします。

そのクリスマスこそ罪人である私達人間を救うために来られた
神様、イエス・キリストの誕生を祝う日なのです。
人々は生まれてから死ぬまで色々な罪を犯します。
法律で定められた罪だけではなく心で思って犯すあらゆる悪い思いさえも
神様の前では罪です。
神様の前で人間は一人として正しい人はいないのです。
すべての人は罪人です。そして、罪人である人間は
神様との交わりを持つことができません。
神様は聖い方だからです。

罪を犯した人は相手に許しを求める時、
そしてそれに対して相手が許した時和解が成立します。
罪人である人間と全く罪のない聖なる神様の関係を
回復させるために来られた方がイエス様です。
そして、私達の罪の代価をイエス様が担ってくださったのです。
そこに神様の愛があるのです。
そこに私達への許しがあるのです。

私たちに歯向かう敵を愛することは難しいです。
私達を憎む人に善を行うのはもっと難しいです。
私達を呪う人を祝福するのはいかがなものですか?
私達を侮辱する人のために祈れますか?
私達の片方のほうを打つ人に他のほうをも向けられますか?
ルカの福音書6章にはこれ以上にももっとたくさんの
イエス様の命令が書かれています。

自分の愛するお父さんとお姉さんを殺し、自分にも死ぬほどの苦しみを
与えたドイツ人を許せますか?
しかし、コリーテンブムは神様の声を聞き、従いました。
そして、彼女が許しを決めた瞬間、自分もその憎しみという感情から
解放されたのです。
それで神の愛、神の平安を得ることができたのです。

イエス様は私たちに平安を与えるためにこの世に来られました。
どうか、そのイエス様を心に受け入れ神様と和解できる私達でありますように。
  

Posted by 青い鳥 at 15:22Comments(0)説教

2018年01月23日

風の中の散歩

風の中の散歩
少し暖かくなっていた天気がまた冬に戻りました。
寒いので部屋の中で動きまわるのも億劫になっていましたが
去年の末から決めた集まりがあり渋々出掛けました。

帽子をかぶり、首にはしっかりとマフラをしました。
しかし、冷たい風が体のそこまで届くような天気です。
2回めの訪問ですが前とは違う路線の電車を利用することになりました。
20分に1台のローカル電車の中は客もまばらでがらがらです。

乗替に遅れて電車に乗り遅れそうになりましたが無事に搭乗できました。
最寄りの駅について電話をしようと思ったとき
携帯電話の連絡先に名前が登録されてないことを知り慌てました。

少し前に調子の悪いスマホを初期化したとき電話番号が綺麗に削除されたのです。
ネットに保存していた連絡先しか残されていません。
それで一人、二人結局3人の人に連絡をしてやっと
電話番号を知ることができました。

やっと連絡が取れると安心したのもつかの間、
駅からの道順を知るためにかけた電話機の中から聞こえる案内放送は
”現在使われておりません。”の繰り返しです。

1時間近く時間をかけ、また交通費まで使ったのにそのまま帰るのも忍びなく
始めてきたときの記憶を頼りに目的地を探す羽目になりました。
方向音痴の私が40分近く風の中を彷徨った末ついに
目当ての建物を探し当てました。
けれども、入り口の2つの門はしっかり鍵がかかっていて留守でした。

風が吹き、小雨の中を探せると信じ頑張って歩いた該もなく
いつ戻るか、また連絡が取れるかわからない相手を待つのもアホらしくなり
伝言のメモ用紙を残して結局帰ってきました。

帰りの電車は30分に1台の電車が少し前に出てばかりでした。
待つ時間が退屈で駅の中を探索したりしました。
やっと電車が到着して次の乗替の電車に乗るために駅に急ぎました。
改札口に急いでいるとき私が乗る電車がちょうど出発するところでした。
また20分を待ったなければなりません。

それで、駅に向かう時通り過ぎたパン屋に戻りパンをいくつか買いました。
あまりにも強い風は軽くない私の体が飛ばされるのではないかと
心配になるほど強かったです。

パンを買い、当分出発を待ったなければならない電車の中に座っていると
いつの間にか鼻水が出てきました。
なんだかんだ散々な半日でしたがなぜか心の中は平安でした。
不思議と怒りは出なかったのです。

正月、ずっと部屋にこもりテレビばかり見ていたので体の調子が悪くなり
右足の痛みが出て整形外科のリハビリにずっと行っています。
腰から来る痛みらしく知り合いからは出来る限り歩くように言われました。

寒いのでほとんど外出しないでいる私に神様は無理やりでも
歩かせるためにこんな事になったのかもしれません。
本当にありがた迷惑はこんなことでしょうか?
それは冗談で、その深い愛に感謝しています。

  

Posted by 青い鳥 at 13:42Comments(0)

2017年12月16日

緑の闘士ーワンガリ・マータイ

緑の闘士ーワンガリ・マータイ
試験勉強で無理をしたのか鼻がただれて痛いし、鼻の下には
真っ赤なできものが二つもできて恥ずかしい思いをしています。
緊張と実力不足の中で臨んだ試験の結果は散々なものだと思いますが
とにかく試験が終わってホッとしています。

試験勉強のために時間を取られる事もなくなり
外出しないときは借りてきた本を読んだりテレビを見ています。
年末が近づき図書館の貸し出しの本が増えました。
2つの図書館で借りてきた26冊の本を横において幸せな気持ちです。

本を読んで目が疲れるとどんどんだまっていく録画番組を見て削除しています。
見ては削除していく番組の中で削除するのが忍びなく2回も見た番組があります。
NHKザープロファイラの”ワンガリ・マータイ”を取り上げた内容です。
極東地域で暮らし日本と中国以外は旅行したことのない私にとって
アフリカのケニアという国は想像すらできない国です。
そこで生まれ育ち、アフリカの女性としてまた環境分野で初めて
ノーベル平和賞を受賞した彼女の話はとても感動的でした。

テレビのニュースで接したアフリカに対する知識は
民族紛争や飢饉とエイズ以外はほとんど知りません。
まだ迷信深く女性に対する差別などが根深く残っているとの事は
聞いていたのですがそんなアフリカの女性の意識を変えた
一人の女性の生きざまを見て目頭が熱くなりました。

現代は情報格差や貧富の格差など社会のイッシュになっています。
しかし、アフリカでは女性で生まれたことで教育を受ける機会すら
ない現状を初めて知りました。
けれども、それはアフリカのことだけではありません。
数十年前まで韓国でも同じような事が起きていました。

韓国の朝鮮時代を背景にしたドラマの中では社会活動をしたくて
また勉強がしたくて男子の格好をする女の話が時々出てきます。
普段自由に外の出入りさえできない生活を女性たちは強いられていたのです。
父方の叔母も一人娘だったのですが大学生たちがボランティア活動として
運営する夜間学校に通うことさえ許されず、読み書きを学ぶ機会を奪われています。

義務教育で女の子も学校に行って学び実力によっては留学をしたり
今まで男の仕事だと思っていた世界まで進入できるようになったのは
つい最近の事です。
いくら頭がよくて勉強したくても女だという理由で
勉強する機会を得ることができず挑戦する事さえあきらめた人が多いのです。

似たような時代のアフリカの女性のワンガリの人生のターニングポイントに
なった事は教育を受ける機会を得たことです。
彼女が生まれ育った当時のケニアの地域で女の子はただ生活のために
家事を分担し、ただ働くだけの選択しかありませんでした。
男の子だけが学校に行って勉強できる時代に
”なぜ女の子は学校に行かないの”と問いかけた兄と
その兄の説得を受け入れた母によってワンガリは教育を受ける
素晴らしい可能性を手に入れることができたのです。

学校で目にした新しい世界と勉強への興味と努力で
アメリカの留学の機会を得、それで彼女はケニアでは
絶対に得られない民主主義や男女平等などの概念を学んだと思います。
そして、新しい世代への期待を背負って到着したアメリカでの留学生活で
長年ヨーロッパの植民地支配にあった母国への再建への思いも
深まって行ったことでしょう。

一人の女性がいろいろな偏見と差別で満ちていた自分の国を出て
アメリカという国で目にした新しい思想と文化によって
アフリカでとどまっていたら絶対にわかるはずのない生き方を学び
そして、後々ケニアの女性の意識を変えついに、国と男性たちを動かした
生涯はとても素晴らしいものでした。

教育を受ける機会を得たことで、また新しい生き方を見て学んだことで
一つの国を超えアフリカの女性たちに自分たちの可能性を悟らせた
彼女の人生に深く感動しています。

今、自分が当たり前のように思える多くのものや生活が
昔、いいえ、現代のどこかの国の女性には夢のようなものなのかもしれません。
自分が持っているもの、与えられた環境や機会に感謝します。
そして、まだ差別や偏見、貧困などで苦しんでいる
恵まれてない人々のために何かできることがあったら実践していきたいですね。
  

Posted by 青い鳥 at 19:02Comments(0)

2017年12月02日

本ーケータイ犯罪からわが子を守る

本ーケータイ犯罪からわが子を守る
電車の中の光景が数年前から大人から中高生までスマホを初め
携帯電話を覗く人々に埋め尽くされるようになりました。
日に日に増え続けているスマホ利用者、携帯電話が普及する中で
一人1台の時代になりつづあります。
そして、今は子供までが色々な理由でスマホの世界に入り込んでいます。

最初、仕事で必要して使っていた携帯が今は大人から子供まで
連絡手段として欠かせないものとして使う世の中になりました。

それで、確実に連絡を取るためには連絡先に固定電話より

携帯番号を書いてくれることを好むようになりました。


和田秀樹さんが書いた本”ケータイ犯罪からわが子を守る”を読みました。
子どもにスマホを持たせないように決心して実践している
親たちへの励ましから子供にスマホを持たせる前の親への
注意事項や情報を載せています。

ケータイという新しツールを持つことは
新たなコミュニケーションの可能性が開かれると言います。
メールはもちろん、インターネットではブログ、sns、ツイッターなどの
サービスによって様々な人とコミュニケーションを取ることができます。
それは全く知らない人々と国内だけではなく全世界の人々までも
出会えることのできる素晴らしいツールです。

しかし、その出会いには常に二つの可能性を秘めています。
良い出会いもあれば悪い出会いもあるからです。

それで、子供をケータイの負の側面から守りたければ
ケータイの負の側面とは具体的に何なのかを考え
その対策を練っておく必要があると助言しています。
大人さえ様々な手法で騙されるネットの世界です。
まして、まだ判断力が未熟で純粋な子どもたちは知らぬ間に
いじめやいろんな犯罪の負の世界のカッコの餌食になる可能性があります。

また、スマホを手にして利用を続ける中でスマホに蓄積されていく
個人情報の保護にも気を配らなければなりません。
スマホをなくした時にあり得る色々な負の側面は思うだけで
気が沈みます。
ケータイを紛失している間に登録してあった個人情報が売られる恐れ、
拾ったケータイで有料サイトを閲覧したり、インターネットショッピングに
利用されたり最悪の場合は犯罪に利用されるかもしれません。
ケータイを紛失したらすぐに電話会社に連絡をして
利用停止しなければならないと著者は忠告しています。

本を読みながらスマホを利用している中高生のメールのルールを
知り驚きました。
相手の状況が見えない分、常に気をつけなければならない電話より
いつでも相手が自分の都合に合わせて読めるようにとメールを使います。

しかし、中高生のメールのルールは5分以内に返信しなければならない
”即レス”というルールがあると本には書かれています。
メールしたら相手も即レスしないといけないと思ってしまい
単に相手に反応するだけのメールを返すやり取りが永遠に続くようです。
どちらが打ち切らなければ延々と続く彼らの世界で
”長文のメールはうざい”と思われ、短い文字を打って
絵文字をつけて返信するようになるそうです。
それが結局深く考えずにただただだ反応するだけの
レスポンス人間を作っていくのではないかと著者は心配しています。

実際に単語程度しか文字を書かず表現を絵文字に頼ってしまえば
普段の生活の中でも自分の感情や思いを言葉で表現できなくなる
可能性も出てきます。

そして、いちばん大事な問題はケータイで確実に奪われるものは
時間だと言います。
ケータイでメールをする、ゲームをする、ネットサーフィンすること
そこの没頭することによって勉強やスポーツをする時間が奪われていきます。
韓国ではゲームに嵌り健康まで損ない、死に至る若者が出ました。

必要だと思って子どもに与えたスマホがどれほどの危険性を
含んでいるのか怖くなります。
しかし、現実はそのスマホから自由になれないように進んでいきます。
避けられないなら賢く使うように前もって対策を考えて
行動しなければなりません。

どうか、神様、愛する子どもたちを見守ってください!!!
  

Posted by 青い鳥 at 20:16Comments(0)

2017年11月15日

絵本から始まる英語学習法

絵本から始まる英語学習法
なぜか、不眠の日が続いています。
睡眠不足か数日前から急に寒くなった気温のせいか、風邪気味です。
頭が痛く鼻水まで出ています。
そんな状態で勉強会に出かけたのですが、風が強く暖房のないお寺の中に
1時間以上座っていたので膝が寒く早めに帰ってきました。

夕食を済ませ、やっと読み終えた本を図書館に返す前に
自分の感想を記録に残したくて文を書いています。

中学校に入り、始めて接した英語はとても新鮮な経験でした。
ローマ字を覚え、辞書を片手に英語で書かれた文章を訳しながら
物語を読む楽しさも覚えました。
しかし、英語で書かれた恋愛小説を読む目標にはまだ到達していません。

生活の中で実際に英語を使う必要は殆どなく
出世や進級のために英語の点数を挙げる必要もありません。
時々、英語の必要性を感じるのは、あまりにもひどい字幕が嫌で
英語を英語のままで理解できたらいいなと思う時だけです。

ピアノが上手になる本や英語学習法に関する本を数多く読みました。
そんな本を読むより実際にピアノを練習しなさいと妹は言います。
水泳がうまくなるために本をいくら読んでも水の中で
練習をしなければ泳げるようにはなりません。
いくら英語がうまくなる学習法を読んでもそれを実践しなければ
英語はうまくなりません。

英語ができるようにするために莫大なお金を使っている国が韓国や日本です。
しかし、英語とはあまりにも離れた言語が韓国語や日本語です。
外国との貿易が盛んではなかく自給自足で生活していた昔は
それほど外国語を学ぶ必要はありませんでした。
一部の学者や通訳のための人々が学ぶだけでよかったのです。

また、幸いにも韓国や日本は自分の独自の文字や言葉を持っているので
英語など外国語の助けがなくても十分に文化生活ができ、
思想を広げることができました。

けれども、交通手段の発達と24時間インターネットで繋がれた世界で生きる現代は
英語という言葉ができる人とできない人は得る情報量から機会まで
極端的に変わります。
選択の幅と情報の量の格差も驚くほど広がります。

そんな情報の格差などによる影響など肌で感じることの出来ないわたしが
英語の必要性を切実に感じるときがあります。
それは、パソコンを使うとき急に出てくる
英語のエラーメッセージの内容を知りたいときです。

そして、いまだに英語への憧れや未練を払いきれずにいます。
そんな私が見つけた数日前に見つけた本が絵本から始まる英語学習法でした。
日本図書館協会で出版した”図書館多読への招待”です。
辞書や文法を忘れてただひたすら英語の絵本を読む方法です。

辞書は引かない、
わからないところは飛ばす、
自分に会わないと思ったらやめて次の本に移るの3原則が面白いです。
今までの英語学習とはまったく反対の学習法は本当に効果があるかな
疑問がわきますが実際の成功事例が沢山載っていました。

この学習法はレベルによって沢山の面白い絵本や本が必要です。
それだから個人よりは図書館で取り込んでいくのが効果があるでしょう。
今も、英語ができる子供に育てるために励んでいる親がいます。
大人になっても様々な必要で英会話教室に通ったり
留学する人が相変わらず増えています。
英語を習得するために費やした努力、時間やお金は莫大でしょう。
そして、それは効果があるでしょうか?

電車の中で必死に英語の単語を覚えている学生を見かけます。
勉強のためにひたすら英語を覚える姿はいじらしいのですが
自分の好きな絵本や本を楽しんで読み続けていく間に
いつの間にか英語が上達できたらどれほど幸せでしょう。

苦痛を感じながらも必要に迫られ英語を学ぶよりは
好きな本を読みながら英語までうまくなるなら
これほどいい学習法はないと思います。

楽にうまくなる秘訣を常に捜し求めているので
早々と試してみようと思っています。
さて、面白い英語の絵本はどこの図書館にあるだろうか?  

Posted by 青い鳥 at 20:17Comments(0)