2012年06月22日

説教ー私たちの間にすむ神(2011年1月27日木曜日)

説教ー私たちの間にすむ神(2011年1月27日木曜日)
わたしが始めて生駒の地を訪れたのは4年前のヨベル聖会の時でした。
地図を片手に何度も道を聞いてやっと学院にたどり着きました。
畑と竹やぶに囲まれた細い坂道を登りながら心の中は不安と心配でいっぱいでした。
その日のことが昨日のことに思われます。
しかし、3年間の学院での学びもそろそろ終わりに近づきました。

2年のときから始まった朝チャぺのメッセージも今日で最後になります。
心からほっとしています。

学院では色々なことで何度も心が揺れました。
しかし初めて経験するさまざまなことを通して多くのことを学びました。
楽しいこと、つらいこと、うれしいことやさびしいことなどたくさんのことがありました。
しかし、振り返って見るとすべての日々がかけがえのないすばらしい日々に思われます。
たくさんの出会いがあり、たくさんの思い出が出来ました。
すべてのことに心から感謝します。

それでは今日の聖書箇所に移ります。
出エジプト29章の45節から46節を共に朗読しましょう。
『わたしはイスラエルの間にすみ、彼らの神となろう。彼らはわたしが彼らの神、
主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出したもので
あることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。』

出エジプト記は全部40章で出来ています。前半の19章まではイスラエルの民がエジプトを出発し、約束の地カナンに向かう生地が詳しく記されています。
そして後半には律法や幕屋設立の規定が記されています。
そして、出エジプト記を通して語られる一番大事なテーマは
神様によるイスラエルの救いです。

ヨセフの時代飢饉を逃れてヤコブの一族はエジプトのゴセンの地に移り住むようになりました。
そして300年余りのときが流れました。エジプトに移り住んだヤコブの子孫は大いに増え、
エジプトの人々を脅かすような大民族になっていました。
そのことに恐れを感じたエジプトの王によりイスラエルの民は奴隷の状態に陥りました。
そして、毎日のように過酷な労役に苦しむようになりました。
その民の叫びが天に届いたときイスラエルの民を助け出されるために送られた人がモーセでした。
強情なエジプトの王バロと何回も交渉を続けと10の災害の末、
イスラエルの民はやっとエジプトの奴隷の生活から解放されます。

しかし、イスラエルの民が神が与えてくださると約束したカナンへの地は
遠く険しい道のりでした。

体の心底まで奴隷の生活が身についてしまったイスラエルの民は何度も神様を裏切りました。
それでイスラエルの民は40年間荒野を放浪することになったのです。
そしてその40年間の荒野の生活を通してイスラエルの民は
神様を礼拝し神様に従うことを学びました。
神様の訓練を通して神様の選びの民に相応しいように作り変えられたのです。
聖書はイスラエル民族の救いの歴史を通して人類のための
神様の驚くような救いの計画を教えています。

わたしたち人間は生まれながら罪びととして滅びていく存在でした。
罪の奴隷として自分の力ではどうしても自由になることが出来ず
死の恐怖におびえて生きる無力な存在でした。

しかし、そんな私たちを哀れみわたしたちの間に住み私達の神となるために
神様が直接私たちの所に訪れました。
それは罪のせいで奴隷になっている私たちを解放するためでした。
それは罪のせいで死んでいた私達を生き返らせ、私達の間に神様が住み
私達の神様になるためでした。

そのために神様は人間の体を借りてこの世に生まれました。
その方こそ、イエスキリストです。
イエスキリストは十字架の贖いを通して罪の奴隷だった私達を
永遠に解放させてくださったのです。
罪びとの私達の命を救うために神様自身の命を犠牲にしたのです。

しかしそのことを信じないで疑っている人々がいます。
けれども2千年前イスラエルのベツレヘムで生まれ33歳の若さで十字架に掛かった
イエスきりストこそ、その神様です。
罪びとの私達を愛し、わたしたちの間に住むためにイエスキリストは命をささげました。

それではある親子の話で終わります。
日曜日のある教会で牧師がメッセージを語っていました。
そのメッセージの中で牧師はとても信じられないある親子の話を聞かせてくれました。

息子と二人暮らしの灯台守がいました。
ある日、息子は近くの海に釣りに出かけました。
釣りをしている時、急に海が荒れ始めました。

そして、お父さんが息子を助けに来ました。
やっと息子の船に近づいたとき、お父さんはその船に
自分の息子と息子の友達がいるのを発見しました。
しかし、あいにく救命ベストが一着しかありませんでした。

お父さんはその一着の救命ベストを息子の手に渡しながら言いました。
”息子よ、お前はイエス様を信じている。しかしお前の友達はイエス様を信じてない。“
息子はお父さんに微笑みを浮かべ”天国で会いましょう、お父さん“と言って荒波に消えていきました。

このような牧師のメッセージを聞きながら後ろの席で座っていた若者たちが騒ぎました。
“嘘だろう、信じられない。” 
その時です。
近くの席でその若者たちの話を聞いていた白髪のお爺さんがこう言ったのです。
”いいえ、あの話は本当です。あの牧師こそわたしが救った息子の友達です。“

イエスキリストは2千年前罪の重荷で苦しんでいた罪びとの私達を救うために
この世に来られました。
そして、私達を罪の重荷から解放するため十字架に掛かりました。
罪びとの人間を救うために神様は自分の愛する息子を犠牲にしたのです。
そのことは真実です。
しかし、今でも多くの人々が”嘘だろう、信じられない。”と言って疑っています。

第一コリント人への手紙1章18節にはこのような言葉が書かれています。
『十字架の言葉は滅びにいたつ人々には愚かであっても、救いを受ける私達には神の力です。』

神様はエジプトで奴隷の生活で苦しんでいたイスラエルの民を救い出しました。
そして、乳と蜜の流れる地、祝福の地に導くと約束されました。
しかし多くのしるしを見たにもかかわらず、神様の言葉を信じなかった、
疑いを持っていた人たちはその約束の地に入ることができませんでした。
多くの人々が荒野で滅びていったのです。

神さんは今日も聖書を通して私たちに語っています。
『わたしはあなたの間に住み、あなたの神となろう。
あなたはわたしがあなたの神、主でありあなたの間に住むために、
あなたを罪の奴隷から救い出したものであることを知るようになる。
わたしはあなたの神、主である。』

イエス様は私達を罪の状態から解放させるために十字架に掛かりました。
その救いを受け取るとき神様はわたしたちの心にすむことが出来ます。

それではヨハネの福音書3章16節を共にお読みしましょう。
『神は実に、そのひとり子をおあたえになったほどに世を愛された。
それは御子を信じるものが一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。』
  

Posted by 青い鳥 at 15:39Comments(0)説教

2012年06月22日

説教―サマリヤの人々(2010年11月4日木曜日)

説教―サマリヤの人々(2010年11月4日木曜日)
上級生が少ながったせいで私たちの学年は特別に強力なスパルタ教育、いいえ、
エリート教育を受けています。

1年2学期から司会が始まり、2年には早々と説教を語るようになりました。
朝チャぺの賛美リードの時には楽譜の持込が禁じになり
いまは賛美歌3曲を楽譜なしで歌っています。
そのお陰で朝チャぺの賛美の時間がどんどん短くなり
だんだん掃除の時間が増えつつあります。

今学期からは説教のときも原稿を見ないで語れるようにとまた一段とハドルの高い
課題が与えられました。
原稿丸読みといわれるわたしは今まで必死になって前を見るように努めていました。
しかし、今回は祈りの苦手なわたしですが神様の助けを必死に求めています。

それでは今日の聖書箇所に移ります。
ヨハネの福音書の4章の13節と14節をお読みします。

今日わたしはヨハネの福音書4章から『サマリヤの人々』という題でお話します。
ヨハネの福音書4章にはイエス様がユダヤからサマリヤに行く途中で
出会ったサマリヤの女の話が書かれています。

スカルというサマリヤの町にはヤコブの井戸がありました。
イエス様は旅の疲れで井戸の傍らで腰を下ろしていました。
弟子たちは食べ物を買いに町へ出かけていました。
時は真昼の12時ごろでした。
そこに一人のサマリヤの女が水を汲みに来ました。
この人は人々が水を汲みに来る時間帯を避けて一人で水を汲みにきたのです。

ヨハネの福音書4章15節から18節の内容で彼女の人生を垣間見ることが出来ます。
彼女には5人の夫がいました。そして今一緒にいる人も夫ではなかったのです。
そんな人生を歩んできた彼女は人々を避けて真昼の厚い時間に
水を汲みに井戸に来ました。
そしてその罪深い女の人に声をかけた人がユダヤ人のイエス様でした。

4章7節と9節にその様子が書かれています。
『イエスは”わたしに水を飲ませてください“といわれた。
そこで、そのサマリヤの女は言った。
“あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女のわたしに、
飲み水をお求めになるのですか。”
ユダヤ人はサマリヤ人と付き合いをしなったからである。』

サマリヤの女は自分に声をかけたイエス様のことでとてもびっくりしました。
ここでユダヤ人とサマリヤ人の歴史的背景をお話します。
ユダヤ人とサマリヤ人はもともと一つの民族でした。
しかし、紛争が起こり二つの国になりました。

南のユダヤ人たちは信仰や血の純粋さを保ちましたが
サマリヤ人は違法の民と結婚したりして信仰からも血の純粋さも失ってしまいました。
そしてそんなサマリヤ人たちをユダヤ人はとても軽蔑していました。

その理由は三つあります。
一番目はイエス様の時代、その地域では男の人は人々の前で
決して女の人に声をかけなかったからです。

2番目はユダヤ人はサマリヤの人々を軽蔑していたので
サマリヤの人々と言葉を交わしませんでした。
そして、3番目は特に尊敬されるラビは不道徳な女の人に
決して話しかけなかったからです。

しかし、イエス様はそのすべての社会的な壁を破っています。
そして、不幸な人生を送っていた彼女の存在を認め水から手を差し伸べました。
彼女の心の渇きを知っていたイエス様は彼女に決して乾くことのない福音を伝えました。

4章の14節を共にお読みしましょう。
『しかし、わたしが与える水を飲むものはだれでも決して渇くことがありません。
わたしが与える水はその人のうちで泉となり永遠の命の水が湧き出ます』

サマリヤの女はイエス様の言葉を聞いて素直に福音を受け取りました。
そして、彼女は自分の水瓶を持っていくことさえ忘れて町へ戻りました。
それは自分がであったイエス様のことを人々に伝えるためでした。
今まで人々を避けて生活していた女の人でした。
死亜k氏、イエス様の福音を聞いたときそのあまりにの驚きとうれしさで
じっとしていられませんでした。
そのうれしい知らせを人々に伝えずにはいられなかったのです。
そして、そのサマリヤの女を通してその町の多くのサマリヤ人が
イエス様を信じるようになったのです。

学院にソマコウジという方が来て特別講義をしたことがあります。
ソマさんの話を来て学院で一時十字架を見つけるゲームが流行ったときもあります。
日本の文化の中に色んな宗教の中に残されているキリスト教の痕跡をとても
興味深く教えてくれました。
日本の神社がユダヤ教の幕屋に似ていることは前から知っていたのですが
次から次へと出てくる色んな情報に本当に驚きました。

そのそまさんのことでとても記憶に残った言葉があります。
それは自分はクリスチャンとしてほかの色々な宗教を
見下したような態度で接したことを反省したということです。

偶像崇拝ということで相手にしないで生きてきたけれどそれは果たして
神様の見心だったかと深く悔い改めたそうです。
もしかしてその人々もサマリヤの女のように飲んでも飲んでも

満たされない渇きを感じているかもしれません。

わたしたちクリスチャンはイエス様とサマリヤの女のやり取りをただ眺めていた弟子たちのようにただ高くどまって眺めているだけかもしれません。
しかし、イエス様は自分から声をかけ心の渇きを満たしてあげました。
そして、イエス様は弟子たちにこのように伝えています。

ヨハネの福音書4章35節を共にお読みしましょう。
『あなた方は刈入れのときが来る前にまだ4ヶ月有ると言ってはいませんか?
さあ、わたしの言うことを聞きなさい。
目を上げて畑を見なさい。色づいて刈り入れるばかりになっています。』

わたしたちはまだ時間がある、イエス様を伝える時間はまだまだあると
のんびりしています。
しかし、イエス様はわたしたちに”目を上げて畑を見なさい。
刈り入れるときになっています“といっています。

もう時は満ちているのです。
今も満たされない渇きを持ってイエス様の活ける水、
永遠の命の水を待っている大勢のサマリヤの人々がいます。

宗教が違い、文化が違い、肌の色や言葉が違うけれど
神様によって造られ救いを待っている人々がいます。
刈り入れを待っている畑があります。
どうぞ、その人々にイエス様のうれしい知らせを伝えていきましょう。

最後に一人の宣教師の話をして終わります。
中国でハンセン病患者を世話しながらイエス様の愛を実践している
韓国人宣教師がいます。
何千人が集まる療養所で共に生活しながら神様を伝えています。
そこには色々な民族や宗教の人々がいます。

ある日、一人のイスラム教の信者が礼拝をする姿を見かけました。
ムスリムと呼ばれる人々は毎日5回メッカといわれる
神殿のほうに向かいひれ伏してお辞儀をします。
その人は忠実にそれを守りました。
しかし、病気が進み一人ではどうしても礼拝をすることが出来ませんでした。
一人で礼拝をするために必死で努力するその姿を見た宣教師は
彼の信心ぶかさに感動され毎日その人の礼拝の時間に行って助けてあげました。

そして、2年の期間が過ぎたある日、そのムスリムが宣教師に
洗礼を受けたいと申し込みました。
イスラム教は宗教と生活が一緒になっている宗教で
なかなか改宗できないらしいのです。
そのことを知っていた宣教師はいつでも礼拝のたび
手伝ってあげるから気にしないで続けなさいといいました。

そのときそのイスラム教徒はこうお答えたのです。
”わたしが信じる宗教でどんなにすばらしいところに行ったとしても
そこには先生がいないではありませんか。
わたしは先生に会いたいので先生がいる天国に行きたいです。“

宣教師は違う宗教を信じることでその人を裁きませんでした。
軽蔑もしませんでした。
その人の必要を満たしただ愛をもって接しただけでした。

今も多くの人々が間違った道を知らぬ間に進んでいっています。
心の中にはいつも満たされない渇きを感じながら、、、

わたしたちはその人々に渇くことのない命の水、
イエス様の福音を伝えなければなりません。
借り入れのときは近づいています。
サマリヤの人々は今日も渇きの中で命の水を待っているのです。
すばらしいイエス様の福音を人々に伝えましょう。
  

Posted by 青い鳥 at 15:37Comments(0)説教

2012年06月22日

説教ー神の家族(2010年10月12日火曜日)

説教ー神の家族(2010年10月12日火曜日)
雪がまだ積もっていた生駒を始めて訪れたのは一昨年のヨベルの聖会の時でした。
坂道を登りながら色々な不安と迷いに駆られたことがつい昨日のように思われます。
しかし、もう3年になりあと6ヶ月で卒業を迎えます。

学院に入り色々なこと学び沢山の思い出ができました。
その中で一番嬉しいことは神様をとても親しく感じるようになったことです。
いつでもどこでも天のお父さんと呼ばれる素敵な神様に出会ったことが最高の喜びです。

この世に生まれてくる私たちにはすべてお父さん、お母さんがいます。
血のつながりによって出来上がった深い人間関係があります。
それは水より濃いといわれる親子の関係です。
しかし、最近どんな人間関係より固い絆で結ばれているはずの
この関係がとてももろくなっている気がします。

夏休みを迎えす過ごしていた韓国でとても心が痛くなるニュースを聞きました。
それは大阪で起きた二人の子供の死に関するニュースです。
3歳と1歳の幼い二人の子供たちのあまりにも悲しい死の知らせに
今でも心が痛くなります。

23歳の若いお母さんが離婚して二人の子供の世話をしながら仕事をしていました。
しかし、そんな生活に疲れたお母さんが幼い二人の子供をマンションに
置き去りにしたまま1ヶ月以上帰ってきませんでした。

電気が消え冷蔵庫には飲む水さえない状態でマンションに監禁されていた
二人の子供はママ、ママと泣き叫びながら必死で助けを求めました。
しかし、救いの手はついに訪れず二人の子供はこの世を去ったのです。

二人の子供をそこまで追い込んでしまったお母さんですが
子供が出来たときは心から喜んでいる様子を彼女が書き続けたブログを通して
感じることが出来ました。

しかし、そんなに愛していたわが子への思いが生活に疲れ、誘惑に駆られ
いつの間にか冷たい無関心へと変わっていったのです。
今日本も離婚している人が多いのですが韓国も年々離婚が増えています。

二人の人が愛を誓って結婚します。しかし、何かの理由で離婚をした場合
二人とも深く傷つきます。そして夫婦の中に子供がいるともっと大変な問題になります。
離婚の問題で一番傷つくのはもしかして子供なのかもしれません。

現在韓国では親の離婚により両方の親から捨てられ
孤児院に預けられた子供が増えていると聞きました。
今は血で結ばれた切っても切られない絆で結ばれているはずの親子関係さえも 
もろく切れ掛かっているのです。

それでは今日の聖書箇所に移ります。
マタイの福音書12章の46節から50節を共にお読みしましょう。
イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに
話そうと思って外に立っていた。
それで、ある人がイエスに言った。
“こらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、
外に立っておられます。”
イエスは知らせてくれたものに答えて言われた。
“わたしの母とは、誰のことか。わたしの兄弟とは、誰のことか。”
そして、弟子たちの方に手を差し伸べて言われた。
“御覧なさい、心わたしの母、わたしの兄弟がいる。
天にいますわたしの父の御心を行うものは誰でも、
私の兄弟、また姉妹、また母なのである。”

わたしは1年のとき、沖縄を旅行したことがあります。
院長先生の沖縄の集会に参加するという立派な理由だったのですが
実際は沖縄観光が主な目的でした。

初めての沖縄旅行は変わった建物、異国のような風景、安くておいしかった
食べ物、聴きなれない言葉や音楽までとても楽しかったのです。

その沖縄旅行でとてもすばらしい二人の牧師先生に出会いました。
生駒の卒業生の砂川先生もその一人です。

高台の上に立てられた立派な教会についたとき、子供たちが
教会の前で掃除をしていました。
無邪気に遊んでいるその子たちはとても明るく幸せに見えました。
しかし、その四人の子供たちが全部里子だと後で知り、とてもびっくりしました。

今年9月23日の天国聖会の講師として招かれてこられた砂川先生は
現在は5人の里子と暮らしています。
親元で虐待されて施設に保護された子供を自分の家庭に受け入れ
愛を持って育てています。

先生から子供が5人いますといわれると”大変ですね。“という人がいるそうです。
しかし、”子供が5人いるから5倍幸せです。わたしたち夫婦は世界で一番幸せです。”と自慢できる先生はとても素敵な先生です。

砂川先生が里子を育てようと決めたきっかけは
血による親子関係のもろさを感じたからです。

自分の都合によって人々はいつでも変わってしまう恐れがあります。
それは親子関係を初めすべての人間関係にありうることです。
しかし、絶対に変わらない愛の絆で結ばれた人間関係があります。

それはイエス様を信じイエス様によって結ばれた神の家族で
その愛は変わることはありません。
血でつながれてないけれど実の親より深い愛で結ばれた人間関係です。
そしてそのような人間関係はどのように結ばれることが出来るのでしょうか。

その答えはマタイの福音書12章50節のイエス様の言葉で知ることが出来ます。
共にお読みしましょう。
『天におられるわたしの父のみこころを行うものは誰でも、
わたしの兄弟、姉妹、または母なのです。』

イエス様がいつものように神様の教えを人々に伝えている時でした。
イエス様のお母さんと兄弟、姉妹たちが何かイエス様に話しがあって訪れたのです。
そして、それを見た人がイエス様に“あなたのお母さんと兄弟たちがあなたに話そうとして外に立っています。”と伝えました。

その時、イエス様は言い切るような勢いで”わたしの母とは誰ですか、
またわたしの兄弟たちとは誰ですか“と聞きました。
そして、イエス様は手を弟子たちのほうに差し伸べて言われたのです。
”見なさい、わたしの母、わたしの兄弟たちです。
天におられるわたしの父の御心を行うものは誰でも、
わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。“

イエス様はここで自分の血による繋がりよりは
もろく壊れてしまう血による繋がりよりは
神の言葉を守って生きる人々がイエス様の母であり、兄弟だと宣言したのです。

イエス様が言った神の御心とは何でしょうか。
それはこの世を造った神様を信じること、そして人々を愛することです。

学校では人間は猿から進化したと教えています。
しかし、聖書は神様が人間を造ったとしっかり書いています。
創世記1章27節『神は御自分のかたちとして創造され、神の形として彼を創造し、
男と女とに彼らを創造された。』と書かれています。

わたしたちは猿から進化した偶然のものではありません。
神様が計画を持って神様の形に似せて愛を持って一人一人を造ってくださったのです。
わたしたちは一人一人、それぞれすばらしい神様の作品なのです。

しかし、わたしたちはそのことを知りませんでした。
そして、神様の存在も信じませんでした。
それはなぜでしょうか?
それこそ人間が犯した罪のせいです。

罪により人々は命の元なる神様から永遠に離れてしまったのです。
そして、人々は自分たちがどこから来てどこに向かっているのか、
自分たちは何のために生きているのかを知らず、
自分の欲のまま生きるようになったのです。

今も毎日のように人が人を憎み、平気で殺し、自分たちの利益のために
国が国を攻めて戦争を起こしています。
お金ほしさに親が子を殺し、子が親を殺しています。
人々は罪の中で生まれ罪の中で死んでいくのです。

そしてそんな罪びとがこの世を去ってからはどこに行くのでしょうか。
そこは神様のいる天国ではありません。
わたしたちが本当に帰る故郷、永遠に変わることのない愛を持っている
神様のところに罪人の私達は入ることができないのです。
それは清い神様のところには汚れた罪をもった状態では絶対に入れないからです。

しかし、そんな罪びとの私たちを哀れんでくださった神様が
その罪の問題を解決するためこの世にこられました。
その方こそクリスマスの日になると全世界でその誕生を祝っているイエスキリストです。

イエスキリストはマリヤという処女から生まれました。
そして、わたしたち人間の罪の問題を解決するため十字架に掛かりました。
しかし、3日目によみかえったのです。

罪びとのわたしのため、罪びとのあなたのため、罪びとのわたしたちのため、
すべての罪をきれいに清算するため十字架の上で尊い血を流しました。
そのことを信じイエス様を心に受け入れるとき、
わたしたちのすべての罪は雪より白くなるんです。

その時からわたしたちは神の子供になり神様をお父さんと呼ぶことが出来
すばらしい神の家族になれるのです。
そして、この世を生きる時はいつも神様に守りながら平安な日々を送り
この世を去るときはわたしたちの本当の故郷、天国に帰り
本当のお父さんに出会うのです。

最後に一つの証を語って終わりにします。
現在中国でハンセン病患者のために働いている一人の韓国人宣教師の話です。
ハンセン病とは病気が進むにつれ指が手が腕が目や鼻、唇が腐っていく病気です。
彼はそんなハンセン病患者だけを集めて収容している施設で
患者たちの世話をしながらイエスキリストを伝える仕事をしています。

薬も食べ物も足りない施設では毎日のようにハンセン病の人々がこの世を去ります。
悲しいことに病気よりほとんど食べるものがなくて死んでいくのです。
そしてこの世を去る人々を見守りながら宣教師は毎日のように
天国は確かにあることを確認していると言います。

宣教師は死の直前の人に必ず一つの質問をしています。
それは”あなたの願いは何ですか“という質問です。
叶えられることは出来ないけれどただ聞くだけでもしてあげたいからです.
ほとんどの人が茶碗いっぱいのご飯に2,3品のおかずのある食事をしたいと答えます。
しかし、そんなささやかな願いがそこでは叶えられないのです。
それで宣教師はいつもこのように答えます。
“あなたが天国に行ったらそこではお腹いっぱいご飯が食べられます。”
その答えに満足して彼らはこの世を去るのです。

ある一人の患者の時も同じことが繰り替えられました。
その患者さんは心配そうな声でこんなことを聞きました。
”先生、こんなにも醜い姿のわたしをイエス様は喜んで迎えてくださるでしょうか。
わたしの親もわたしを捨てたのに、、、“

そして、宣教師はこのように答えました。
”天国があなたの本当の故郷です。あなたの本当のお父さんは神様です。
天国に入る瞬間あなたはきれいな姿に変わります。
あなたにはきれいな手が足が出来ます。
神様はあなたを喜んで迎えてくれます。“

宣教師の言葉が終わらないうちにその死に際の患者は大きく叫びました。
“先生、天から大きな手が下りてきます。”
そして横になっていた人が天に向かい10センチも残ってない腕を
力強く上げたのです。それが彼の最後の姿でした。
宣教師のいるその施設ではこのようなことが毎日のように起きています。

宣教師はその人々を通して毎日天国を見ていると、天国は必ずありますと
確信を持って証していました。

天国は必ずあります。そして天国にはわたしたちの本当のお父さんがいます。
いつまでも変わらない愛の神様がいます。

わたしたちはイエス様によって結ばれた神の家族です。
イエス様は今日も罪びとの私たちを待っています。
罪を悔い改め、神様のところに立ち返ることを切に願っておられます。

十字架にかかり命をささげるほど私たち罪びとを愛した神様がいます。
そんな神様の愛に応えてください。
イエス様を信じ神の家族になりましょう。
神様は今も罪びとの私たちを待っています。
神様のところに立ち返りましょう。

ヨハネの福音書1章の12節を共に告白しましょう。
『しかし、彼を受け入れたもの、すなわち、その名を信じた人々には
彼は神の子となる力を与えたのである。』
**彼(イエス様)
  

Posted by 青い鳥 at 15:36Comments(0)説教

2012年06月22日

説教ー神を仰ぎ見る人生ー2010年6月10日

説教ー神を仰ぎ見る人生ー2010年6月10日
生駒聖書学院は永遠のベストセラとまで言われている聖書を学び
本当の神様を伝える耐え目の勉強をしている学校です。

牧会のためのさまざまな学びの授業があります。
そして、実際に現場に言ってトラクトを配ったり、学生だけで行う
伝道集会もしています。

学院の学びを通して牧師、宣教師、伝道者または
牧師夫人になるための訓練を受けています。
わたしは全く違う目的で入学したので最初とても戸惑いますした。
人の前に出て話すのがあまり得意ではないので説教や賛美リードなど
いつも緊張します。

やっとの思いで何回かの説教を語りました。
決められた時間に合わせてテーマを決めて内容を膨らませるのが
結構大変なことです。

わたしの説教を聴いた人の中からもうちょっと
聖書を深く掘り下げて語るように助言されました。

今回の説教を準備する中でその言葉がずっと頭の中で浮かんできて
悩みの日をすごしました。
しかし、何回聖書箇所を読んでみてもなかなか掘り下げることが難しいのです。
スコップで一生懸命土をつついているようなものです。
できたらスコップよりはポークレインのような強力な神様の助けを求めています。

それでは聖書箇所に入ります。
詩篇27編の7節から9節を共にお読みしましょう。
『主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき
聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。

あなたは仰せられました。
「わが顔をたずね求めよ」と。
あなたに向かって、わたしの心は言います。
「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。

み顔をわたしに隠さないでください。
怒ってあなたのしもべを退けないでください。

あなたはわたしの助けです。
わが救いの神よ、わたしを追い出し、
わたしを捨てないでください。』

詩篇は聖書の中でも最も愛読されている書物です。
150編の詩が収められていますが3分の一近くは著者が誰かわかりません。
そして3分の2の著者はモーセ、ソロモン、ダビデなどが書いたと推定されています。
一つ一つの詩篇の中には神様にささげる感謝と賛美、苦悩や嘆き、神様に助けを求めている内容などが織り交ぜて歌われています。

神の助けを仰ぐ祈りの詩篇は前半に多く集められています。
そして50以上の詩がダビデのものとされています。
その内容は困難な状況の中でも神の恵みと助けを確信し、
勝利の信仰を告白しています。

詩篇の多くを書いたとされているダビデはどんな人生を送ったのでしょうか。
ダビデはユダ族でベツレヘムに住むエッサイという人の
8人の子供の中の末子として生まれました。

後に、イスラエル王国の第2代目の王にまでなりましたが
ダビデは元々は羊飼いでした。
イスラエルの敵ペリシテの巨人ゴリアテと少年ダビデの戦いは
とても有名なお話です。
その戦いをきっかけにダビデはイスラエルの2代目の王になる
機会を得たと思われます。

自分に任された羊飼いの仕事をいつも忠実にやっていたので
それが後にとても役に立ったようです。
ダビデがイスラエルの王国としての基礎をしっかり作ったので
3代目のソロモン王の時代は最高に繁栄されました。

しかし、ダビデの人生は多くの苦難と試練の連続でした。

義理のお父さんに当たるサウル王の妬みから来る迫害を初め、
息子による反乱、多くの子供による色んな問題まで
ダビデの人生は殆ど神様を仰ぎ助けを求める日々でした。

詩篇27編は息子アブシャロムの反乱の時に書かれたと考えられています。
ダビデが自分の息子の策略によって逃げ回る生活の中で書かれたとされています。

死の恐怖の中でダビデは神様に向かって切実な声で助けを求めています。
しかし、その大変な日々の中でもダビデは迫ってくる敵の恐怖より
神様から見捨てられることを恐れています。

それは詩篇27編の1節、3節にはっきり記されています。
詩篇27編1節にはこう書かれています。
『主はわたしの光、わたしの救い
誰をわたしは恐れよう。主はわたしの命のとりで。
誰をわたしは怖かろう。』

詩篇27編の3節にもこう告白しています。
『たとい、わたしに向かって陣営が張られてもわたしの心は恐れない。
たとい、戦いがわたしに向かって起こってもそれにもわたしは動じない。』

ダビデはこのようにどんな困難の中でも主がついているなら
恐れはないと告白しているのです。
ダビデは身の回りに迫ってくる危険の中でも神だけを頼りにしています。
人間の脅しよりも神が沈黙すること、御顔を隠すことをもっと恐れました。
ダビデは生涯、神への信仰から離れませんでした。

ダビデが常に神様の臨在の中で神様の道を歩み続けました。
ダビデが書いたとされる多くの詩の中でだびではとても素直に
自分の感情を表す祈りを神様にささげています。
飾り気のない祈りの多くはこんなことまで祈っているのかと
思われる内容も含まれています。

詩篇31編17節にはこのように祈っています。
『悪者を辱めてください.彼らをよみで静まらせてください。』

祈りは大体相手への祝福の言葉や哀れみをかけた内容と思っていたわたしは
こんなにもはっきり書いている内容にびっくりしました。

しかし、ダビデが残した多くの詩を読みながらどんなときでも
神様を仰ぎ見る深い信仰を感じることが出来ました。
ダビデは常に神を仰ぎ見る人生を送りました。

わたしたちは生きている中で色んな試練や苦難に会います。
お金の問題を初め、人間関係の問題や病に至るまで
さまざまな問題と試練がやってきます。

その問題だけを見るときそれはとてつもなく大きく恐ろしいものに思えます。
しかし、神様を仰ぎ見るときその問題は恐れること、怖がることもなくなります。
神様が私たちの祈りを聞いてくださる時神様のみ顔が注がれるとき、
すべての問題は益に変わるのです。

私たちが神様を仰ぎ見、みかおを慕い求める時
神様は私たちの光、私たちの救い、私たちの命のとりで、
私たちの助になってくださいます。

私たちの救いの神様をどんなときもしたい求めていきましょう。
神様は必ず私たちを平らな小道に導いてくださいます。

それでは、最後に詩篇27編の4,5節を告白して終わります。
『わたしは一つの事を主に願った。
わたしはそれを求める。
わたしの生きる限り、主の家に住んで、
しゅのうるわしきを見、その宮で尋ね極めることを。

それは主が悩みの日に、
その仮家のうちにわたしを潜ませ、
その幕屋の奥にわたしを隠し、
岩の上にわたしを高く置かれたからである。』

  

Posted by 青い鳥 at 15:31Comments(0)説教

2012年06月22日

説教ー小さいものの中のイエス(2010年5月18日)

説教ー小さいものの中のイエス(2010年5月18日)
知らない土地に移り久しぶりに机を並べて学ぶ学生の身分になったのが
つい昨日のことのように思われるのですがもう3年生になりました。

鏡に映る顔はあまり変わってないように見えますが
家族寮の子供たちの様子を見ると確実に年を取っています。

今年生駒聖書学院には12名の入学者が与えられました。
びっくりすることはその12名の中の7人が韓国人なのです。
日本語と韓国語が両方ともバリバリ出来る人がいて
まだあまり日本語が出来ない人もいます。

今学院では韓国語ブームが起きています。
毎朝食事のとき1ごとずつ韓国語を学びノートに書きとめて
練習しているM姉妹がいます。
韓国語辞典と本を買ってきてこっそり勉強していたA姉妹がいます。
写真部のミティングがいつの間にか韓国語講座に変わっていると
つぶやいているS姉妹がいます。
真剣な顔で英語を教える代わりに韓国語を教えてと
わたしに相談を持ちかけたY姉妹がいます。

伝道部に入ってきた韓国人男性と話をするため“わかりますか”という韓国語
“アルゲッスムニカ”を一生懸命に覚えたのはY姉妹です。
そのうち生駒聖書学院の女性たちがバリバリの韓国語で
話できる日が来るかもしれません。その日を楽しみに待っています。

それでは今日の聖書箇所に移ります。
マタイ25章31節から46節を共にお読みしましょう。
「人の子が栄光の中にすべての実使いたちを従えて来るとき、
彼はその栄光の座につくであろう。
そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊とヤギとを分けるように、
彼らをより分け、羊と右に、ヤギを左に置くであろう。

その時、王は右にいる人々に言うであろう。“わたしの父に祝福された人たちよ。
さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている視国をうけつぎなさい。
あなた方はわたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、
旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、
病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。“
そのとき、正しい者たちは答えていうであろう。
“主よ、いつ、わたしたちはあなたが空腹であるのを見て食物を恵み、
渇いているのを見て飲ませましたか。
いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのをみて着せましたか。
また、いつあなたが病気をし、獄にいるのと見て、あなたの所に参りましたか。“

すると王は答えて言うであろう。
“あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。”
それから左にいる人々にも言うであろう。
“呪われたものどもよ、わたしを離れて、悪魔とその使いたちとのために用意されている永遠の火に入ってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、
渇いていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、
裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、
わたしを尋ねてくれなかったからである。“

その時、彼らもまた答えて言うであろう。
“主よ、いつ、あなたが空腹であり、渇いておられ、旅人であり、
裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、
わたしたちはお世話をしませんでしたか。“

その時、彼は答えて言うであろう。
“あなたがたによく言っておく。これらの最も小さいものの一人に
しなかったのはすなわち、わたしにしなかったのである。“
そして、彼らは永遠の刑罰を受け、正しいものは永遠の生命に入るであろう。」

今日の聖書箇所はイエス様が裁きのときこの世に来られ、
どのように人々の行いについて裁くかについて書かれています。
イエス様は神様と人間との和解のために人間の罪の問題を解決するために
この世に来られました。

そして、すべての人々の罪を背負い、十字架に掛かりました。
それは人間はすべて神様の前で罪びとであり罪がある人は天国に入れないからです。

イエス様が私たち一人一人の罪のために十字架に係り復活されたことにより
私たちの罪は許され、私たちは神様のところに行くことが出来ました。
そのことをキリスト教ではよい知らせ、すなわち福音といいます。

イエスキリストのその十字架の愛を信じたときからその事実を受け取ったときから
私たちは神様の子供になることが出来ます。
平安と愛、喜びに満ちた人生を送ることが出来ます。
イエス様は33年の短い生涯の中で神様の愛について多くのことを語りました。
そしてイエス様を信じる人々にとても大事なことを命じました。

それではヨハネの福音書15章の12,13,17節をお読みします。
「わたしの戒めは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、
あなた方も互いに愛し合いなさい。
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
これらのことを命じるのはあなた方が互いに愛し合うためである。」

イエス様は私たち罪びとを救うために命をささげるほど
私たちを愛してくださいました。
そして、そんなに愛された私たち一人一人が互いに愛し合うように
何度も語っておられます。

クリスチャンはイエス様の弟子です。
その弟子たちがお互いを愛し、愛の実を結ぶとき天にいる神様が
栄光を受けることになるとイエス様は語っているのです。

今日の聖書箇所のマタイの福音書の25章の内容はその愛の戒めを守った人々と
守れなかった人々への厳しい裁きの内容が書かれています。

25章の31節の人の子はイエス様のことです。
イエス様がこの世に再び来られるときすべての国々の民がイエス様の前に集められます。
そして、その人々を二つ、羊とヤギに分けると聖書には書かれています。
羊とヤギの判断基準はただ一つ、最も小さい者たちを愛したかどうかです。
ここでイエス様は最も小さい者たちにしたことを自分にされたと語っているのです。

イエス様が語る最も小さい者はこの世の人々があまり
目も留めない弱者だと思われます。
どんなことをしてもらっても自分の力で恩を返せない人々を指しているのです。

日本では季節ごとにお歳暮やお中元を目上の人や上司、
取引先のお客さんに送る風習があります。
その中には本当に純粋な気持ちで送るものも多いと思いますが
中には何かの見返りを求めて送るものもあるかもしれません。

しかし、マタイ25章に書かれている最も小さい者たちは
見返りを求められるような人々はありません。
誰も相手にしてくれない、見捨てられた人々のことを言っているのです。
しかし、イエス様はそんな人々にしたことを自分がされたと語っているのです。

韓国で春休みを過ごしたとき、あるテレビ番組を見て涙を流しました。
アフリカの人々に援助しているあるボランティアの団体の女の人のインタビューでした。
アフリカのある地域は水が汚染されその水を飲んでいる人々が病気になったり
失明することが度々あると聞きました。

日本円で何十円もしない水をきれいにする薬を買えないからです。
また、食べるものがなくて死んで行く人々の話を聞きながら
本当に心が痛くなりました。

援助団体の助けを求めて3日間子供をおんぶして訪ねてきたお母さんがいました。
しかし、その施設に着いたとき、そのこはもう死んでいました。
そのお母さんの目から流れ落ちる熱い涙を見たとき
彼女は心が張り裂ける思いだったと話していました。

援助用の薬と食料には限りがあるので治療する人々をより分ける話は
もっと悲しかったのです。
何時間、何日間助けを求めてくる人々がいます。
しかし、そのすべての人々を助けることは出来ません。
いつも援助用の薬と食料が足りないからです。

そして、一番先にやる辛いことが助ける人とあきらめる人を分ける作業だそうです。
長い距離を希望を持って歩いてきた多くの親子がいます。
しかし中には治療を受けることさえ出来ないと色分けされる人々がいます。

親にとって自分の子供はこの世で一番大事な存在です。
しかし、治療するには遅すぎたと宣言される親の心は
どれほどつらく悲しいことでしょうか。

豊かな日本の暮らしの中では想像もできない悲しい出来ことが
同じ地球の中で起きているのです。
地球のすべての人々が食べられる食料が生産されているのですが
地球のどこかで食べものがなく死んで行く人々の涙があります。

自分の利益にならないから、見返りが得られないから
彼らは今も国々から見捨てられ悪い環境の中で食べものがなく死んでいくのです。
イエス様はそんな人々にしなかったことが自分にしなかったことだと
厳しく言っているのです。

今日の説教題は”小さい者の中のイエス“です。
私たちは生きている中で多くの人々に出会います。
その人々の中で私たちは知らぬ間に
イエス様に出会っているかもしれません。

ある時は目の見えないこじきの老人の姿で、
あるときはかっこいい警察官の姿で現れたかもしれません。

私たちは知らぬ間に小さい者の姿をしたイエス様に会っているのです。
そのイエス様にしたこと、しなかった愛の行いについて
イエス様は裁きのとき、私たちに聞くのです。

今日わたしはアメリカで癌の専門医として働いている
一人の韓国人のクリスチャンの話しをします。
彼はとても貧しいやもめの息子でした。
お母さんがクリスチャンで小さいときから教会に通っていました。

韓国でも有名なソウル大学を出て医者として働いていました。
けれども、ひょんなことからアメリカに留学を決めました。
初めに渡ったそのアメリカで不思議な導きによって参加したリバイバル集会で
彼はイエス様に出会った体験を語るように頼まれました。

ほとんど英語を聞き取ることも話すこともできながった彼は
神様に助けを求めました。
祈りの中で彼が見た幻は知らぬ間に自分の人生で出会った4人のイエス様の姿でした。

祈りが終わり緊張の中で彼が会衆の前に出て韓国語で話し出すと
驚くことに彼の口からは滑らかな英語が出てきたのです。
英語が異言として与えられたのです。
異言とは神様に与えられる祈りの言葉です。
神様によってまったく知らない言葉を祈りの中で話すことが出来るのです。

彼が見た一番目の幻は高校のとき、面倒を見た
目が見えないこじきのお爺さんの姿でした。

いつも欠かさず早天の礼拝に出かけていたお母さんがある寒い冬の日、
教会の近くで乞食のお爺さんを家に連れてきました。

汚物で汚れているそのお爺さんを洗ってあげ貧しい生活の中でも
いやいやながらも面倒を見ました。

幻の中でイエス様は彼に言いました。
“あれがわたしだった。あの冬、どれほどわたしが寒くお腹が空いていたことか。
多くの人々が教会から敬虔な顔でわたしの横を通り過ぎたけれど
誰一人私の面倒を見てくれなかった。ただ、貧しいやもめお前のお母さんが
わたしの面倒を見てくれた。“

二番目の幻は彼が医者の試験の全国大会で一等賞をもらい
お母さんに報告するために家に帰る日のことでした。
夜行バスに乗り故郷のバスターミナルに着いたとき寒さにカタカタ震えている
水簿らしいこじきのお爺さんが見えました。

その時、彼はどうしてもそのお爺さんを知らん振りすることが出来ず
自分が持っていた一等賞の賞金全部を与えました。

”それがわたしだった。“とイエス様は言ったのです。

第3番目の幻は彼が韓国で医者として働いていたときのことです。
夜勤をしていると外が騒がしいので外を覗いてみました。
受付の人とぶつかり合っている水簿らしいお爺さんが見えました。
膝に大きな腫れ物が出来、膿がいっぱい入っていました。
お金がないから治療できないともめているのです。

彼は自分が責任を取るといって真心を込めてきれいに治療をしてあげました。
それから肉でも買って食べるようにと 持っていた小遣い全部を
そのお爺さんに渡しました。
”それがわたしだった。“とイエス様は言ったのです。
”腫れ物でどれほどいたい思いをしたか、それをお前がきれいに治療してくれた。“

そして第4番目の幻は彼がアメリカに始めてきたときのことです。
英語がまったく出来ない彼が朝早い時間にガソリンスタンドで迷っているとき
ひげを生やしたかっこいい一人の白人のお爺さんの警察官が現れました。
そして、彼が持っていた住所に電話をして迎えに来る人を手配してくれました。
”それがわたしだった。知らなかっただろう。“
イエス様はそう言いながら片目をつぶりウィンクをしたのです。

彼はそのリバイバル集会でイエス様の幻を見るまでは
貧しいお爺さんたちがイエス様だったとは思いもしなかったのです。
ある時はいやいやしながら助けた人々がイエス様だったと教えられたとき、
彼は心から申し訳ない気持ちだったと告白しています。

今もイエス様は最も小さい者の姿で私たちの愛を求めています。
空腹のとき食べるものを与えてくれることを、渇いているとき
飲ませてくれることを求めています。
裸のとき着るものを与えてくれることを、病気をしたとき見舞いを
牢にいるとき訪ねてくれることを願っています。

私たちが関心を寄せずに通り過ぎる人々の中で
私たちの愛を待っているイエス様がいます。

ひとびとがダイエットに励んでいる最中に貧しい国々の人々が
4秒に一人ずつ食べるものがなく死んでいくのです。
痩せるために流す汗もあれば飢え死にした子供を抱いて流す親の涙もあります。

イエス様は2千年前私たち人間を救うために十字架に掛かりました。
罪のために死んでいく私たちを救うためです。
その愛は自分の命をささげるほどの愛でした。

そして、イエス様はそんな愛を持って救った私たちが
お互いに愛し合うように切に求めているのです。

食べるものがなく弱っていく子供を見て流す親の涙はイエス様の涙です。
今日もイエス様は私たちに求めています。
“最も小さいものの中のわたしを助けて。あなたの愛をわたしに見せて。”

私たちの助けを、私たちの愛を待っているイエス様がいます。
最も小さいものの姿でイエス様は私たちを待っています。
そのイエス様を知らぬ間に見捨てる過ちを犯さないように切に祈ります。
  

Posted by 青い鳥 at 15:28Comments(0)説教

2012年06月22日

説教ー救いを待っている人々(2010年4月27日)

説教ー救いを待っている人々(2010年4月27日)
学期が始まりいつものように朝チャぺの奉仕の日程表が渡されるときは
いつもひやひやします。
今回は何回司会が入り、いつ説教の当番になっているのかすばやくチェックします。
今学期は4回の司会と2回も説教が入っていました。
日程表を受け取った日からさっそく説教の準備に掛かりました。
まず決められた聖書箇所の1歴代誌の16章から18章を毎日読みました。
そして数日間説教を考えながら組み立てた内容を書こうとしたところ
1ページ書いただけでどうしても前に進みません。

幾枚も紙に書いて捨てるうちにとうとう手を上げてしまいました。
わたしは学院に入り6回の説教を語りました。
短くて1日、長くて3日ぐらいで書き上げた説教が本当に書けないのです。
どんなになやんでもどうすることができず、学院生たちに祈りを頼み、
メールでも助けを求めました。

自分の血彼でできていたと思われた説教が神様の助けと
みんなの祈りのおかげだと本当に身にしみてわかりました。

今日の説教が終わるとまた3回の説教を書かなければなりません。
苦労しているわたしですが驚いたことに韓国の牧師先生は
一週間に50回ぐらい語ると聞きました。
肩をつついたら説教がぽんと出るというから神業ですね。

それでは今日のみ言葉に移ります。
1歴代誌16章の34節から35節を共にお読みましょう。
「主に感謝せよ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえに耐えることがない。
また言え、、「われわれの救いの神よ、われわれを救い、もろもろの国民の中から
われわれを集めてお救いください。
そうすればあなたの聖なるみ名に感謝し、あなたの誉れを誇るでしょう。」

今日の聖書箇所はオベデエドムの家から運んできた神の箱の前で行われた
イスラエル人の喜びの祭りの様子と神様にささげたダビデの歌が書かれています。
イスラエル人にとって神の箱はとても大事なものでした。
神様の臨在を表す神の箱を中心にイスラエル人は荒野を歩き
約束の地まで導かれました。

神の箱を通しイスラエル人はいつも共にいて守り
導いてくださる神様の存在を信じるようになりました。
その神様にささげる歌の中でだびではむなしい偶像に使えている国々の人々にまことの神様にたちがえることを繰り返し歌っています。

救われた人々の喜びと共にまことの神様を知らず滅びていく人々が
救われるよう切に求めているのです。

16節の23節を24節を共に告白しましょう。
「全地よ、主に向かって歌え。ひごとにその救いを述べ伝えよ。
もろもろの国の中にその栄光をあらわしもろもろの民の中に
くすしきみわざをあらわせ。」

春休みで帰っていた韓国で3月26日とても悲しい出来ことがありました。
それは海軍の船の事故です。
104人の軍人が乗っていた1,200トンきゅうの船が何かの爆発事故で沈没しました。
今も事故の原因を調べている最中だと聞いています。


船に乗っていた104人の中で58人は助けられましたが46人が亡くなりました。
救助が始まりちゃくちゃくと人々が救われその名前がテレビの画面に映し出されました。
しかし、40人以上の人々が犠牲になりました。

韓国では男の人は20歳を過ぎると国のために軍隊に入る義務があります。
わたしの父の時代は7年も軍隊にいたそうですが最近は22ヶ月までになっています。
20代の若者たちがその若さを花咲かせることも出来ず命を失いました。
息子を失った親や地の悲しみと嘆きを思うと心が痛くなります。

今日の説教題は”救いを待っている人々“です。
海軍の船の事故でも救われた人々がいます。
死の危険から救われた人々の喜びは大きいと思われますが
もっと喜んでいたのは家族ではないでしょうか。

しかし、救助されなかった人々を思うと名前さえ知らないけれど本当に胸が詰まります。
まして、その人々の家族や友達はどれほど悲しい思いをしたでしょうか。

事故のニュースを聞いたときから海軍に息子や知り合いがいる人々が不安を感じていたと思います。
助け出された人々の名前を確認しながら喜びを悲しみが極端に分かれたでしょう.
救われた人々への喜びと共に救われなかった人々への切ない気持ちが、
救えなかったもどかししが心にしみるのです。

海軍の船の事故のニュースを見ながら数年前にみた
「タイタニック」という映画を頭に浮かびました。
この映画は20世紀におきた大惨事の一つのタイタニック号の沈没を描いたものです。

タイタニック号は1912年はじめての航海で氷山にぶつかり海に沈みました。
乗客1,300人と乗組員が886人乗っていましたが
生き残った人は674人しかありませんでした。
1,512人の人が死んだのです。

映画はスケールが大きく恋物語も交えて面白く造られていますがわたしが特に
印象に残っている場面は救助に来た人々のあまりにも真剣な表情でした。

海の上に浮いている人々を一人ずつ確認しながら生きている人を探す
その切なる表情と動きは今でもこみ上げるものがあります。
かつては希望を持って救いを待っていた人々がいたのです。
沈んでいく船の中で冷たい海の中で彼らはどれほど救われることを望んだでしょうか。
その日、海の上で救いを待っていた人々がいたのです。
けれども、彼らのその切なる願いは最後まで叶えられませんでした。
救いの手が届いたとき、彼らを救うにはもう遅すぎたのです。

日本では今、自殺を始め、引きこもり、いじめ、薬物依存など
多くの社会問題がおきています。
その数は先進国の中でトップだそうです。
1日100人あまりの人々が自ら自分の命を絶っているのです。

彼らを自殺、いじめ、引きこもり、薬物いに走らせるのは何でしょうか。
それは生めることの出来ない心のむなしさです。

わたしたち人間は神様によって造られ神様の息によって生きたものになりました。
そして、わたしたちは神様との交わりを通してのみ喜びを持って生きることが出来ます。

しかし、人間が自分勝手な行動をして神様に背いたとき人間の世界には罪が入りました。
その罪によってわたしたち人間は命の戸もなる神様と永遠に離れることになりました。

そして人間の心には生めることの出来ない空洞が出来てしまったのです。
それから人々はその空洞を埋めるため色んなころに走るようになりました。
お金、権力、名誉、お酒や薬などしかしいくらそんなものを追い求めても
そのむなしさを埋めることは出来ません。

唯一の方法は神様との関係が回復されることだけです。
しかし、人間がどんなに努力してもどんなにあがいても人間の力では
その問題を解決することは出来ません。
そんな人間を哀れみ人間と神様の和解のために神様自ら人間の体を借りて
この世に生まれました。その方こそ救い主なるイエスキリストです。

イエスキリストは2,000年前にイスラエルのベツレヘムで生まれ
人間の罪の問題を解決するために十字架にかかり33歳の生涯を終えました。
十字架で流されたイエスキリストの血により、わたしたちの罪は許され、
神様との関係が回復されました。

死の海の中から救われたのです。しかし、まだそのよい知らせを知らない
多くの人々がいます。
彼らは今も罪の中でむなしさの中で死の海の中で救いを待っているのです。

日本にはクリスチャン人口が全人口の1%にも満たないといわれています。
そして、わたしたちはその1%の仲の人たちです。
今日、わたしはわたしたちクリスチャンに問いかけます。
わたしたちはイエスキリストを信じ救われました。
死の海の中から助けられたのです。

しかし、まだ死の海の中で救いを待っている99%の人々がいることを覚えていますか。
わたしたちの救いの手を待っている人々がいます。そのことを忘れないでください。

だんだん迫ってくる死の恐怖の中で叫んでいる彼らの切なる声が聞こえますか。
わたしたちが渡す一枚のトラクトで、わたしたちが伝える一声で、
救われる人々がいます。救いを待っている人々がいます。
”わたしたちの救いの神よ、わたしたちをお救いください。“
どうか、わたしたちの救いの手が遅すぎませんように。
  

Posted by 青い鳥 at 15:26Comments(0)説教

2012年06月22日

説教―まことの礼拝(2010年1月28日)

説教―まことの礼拝(2010年1月28日)
わたしは今日“まことの礼拝”という題でお話します。

生駒聖書学院は神様について学びそして神様を知らない人々に
その神様を伝えるための勉強をする学校です。
聖書を学び、祈り、礼拝、そして奉仕と伝道についての勉強をします。

インターネットで流れる朝の礼拝は学期ごとに
決められたスケジュールによって行われています。

月曜日から金曜日までピアノやドラム、パワーポイントやカメラ、PAの当番が
その日の司会者のリードにあわせて朝の礼拝に望みます。

司会者になったときは前もって曲を選びその歌詞を必死になって覚えます。
1年生の時までは楽譜を見て賛美をしたのですが2年生になってからは
楽譜なしの厳しい状況です。
そのおかげで賛美の時間が短くなり掃除の時間が増えました。

司会の日が近づくと掃除をしながらシャワーをわびながら
ローかを歩きながら賛美を歌っています。

ピアノ当番は司会者に渡された歌を練習しなければなりません。
ピアノ当番になり3曲の賛美をこなせるために
何時間もピアノの前で粘っていた女の子といたそうです。

奉仕の中にはパワーポイントの当番が一番の力仕事です。
毎回1階と2階を往復しながらパソコンとプロジェクターを運んでいます。

朝の礼拝のためには毎日30分間の賛美のリハーサルがあります。
司会者が選んだ賛美の流れを見たり、まだ自信のない曲を練習して
次の日の礼拝のために備えています。
奉仕教会のことや宿題またはバイトの合間に時間を作って練習に励んでいます。

朝の礼拝は1時間の猛声祈祷を持ってそれぞれの心を神様に向け、
賛美で神様を褒め称えそしてその日の神様の声を聞く説教に入ります。

毎日毎日違う人から語られる神様の声を素直に聞けるよういつも努力しています。
学びの中の神学生として常に思うことは毎日の礼拝がまことに
神様に喜ばれている礼拝であるかです。

それでは出エジプト記の32章の1節から6節を共にお読みします。
「民はモーセが山を下ることの遅いのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った。
さあ、わたしたちに先立っていく神を、わたしたちのために造って下さい。
わたしたちをエジプトの国から導き昇った人、あのモーセは
どうなったのかわからないからです。

アロンは彼らに言った.
あなた方の妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずじてわたしに持ってきなさい。

そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。
アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、
鋳て子牛としたので、彼らは言った。

“イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神である。”
アロンはこれをみて、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った。
“あすは主の祭りである。”
そこで人々はあくる朝早く起きてはんさいを捧げ、しゅうおんさいを備えた。
民は座して食い飲みし、立って戯れた。」

今日の聖書箇所は神様から十戒を受け取るためにモーセが山に登り、
残されたイスラエルの人々の様子が書かれている所です。

十戒は神様がイスラエルの民に与えた十項目の戒めが
書かれた二つの石盤のことです。

それにはまず神についての戒めと人についての戒めが書かれています。
モーセが十戒を受け取りに行った間にイスラエルの人々は
神様が一番嫌う偶像を作り礼拝をしていました。
のみで形を作った子牛を神としてその前に祭壇を築いて
朝早く彼らは全焼の生贄をささげ、和解の生贄を備えたと聖書には書かれています。

そしてこの礼拝に満足した民の姿を聖書はこう表現しています。
32章の6節の後半に「民は座っては、飲み食いし、立っては戯れた。」

そして17節から18節には「ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いてモーセに言った。
“宿営の中にいくさの声がします。”するとモーセは言った。
“それは勝利を叫ぶ声ではなく敗北を嘆く声でもない。
わたしの聞くのは歌を歌う声である。“」と書かれています。

イスラエルの民はこの礼拝に熱心に望みました。
子牛を作るために彼らは妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずし
惜しまずにささげています。

そして、主への祭りといわれた日は朝早く、全焼の生贄や和解の生贄をささげています。
また大声で歌う声が山の上にあるモーセの耳まで聞こえるほど
イスラエルの民は喜んでいたのです。

しかし、この礼拝の結果はどうなったのでしょうか。
出エジプト記32章の27節にこう書かれています。
「そこでモーセは彼らに言った。イスラエルの神、主はこう仰せられる。
入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」
そして、その日、おおよそ3千人が倒れた。
イスラエルの民はささげ物を始め自分の時間、そして体を持ってその礼拝に望みました。しかし、その礼拝の中には一番大事な神様がいなかったのです。

どんな整えた形式の礼拝もその礼拝に神様がいないとき、
それはただの自己満足に過ぎずその結果は滅びしかありません。
それではまことの礼拝はどんな礼拝でしょうか。

一人の黒人女性の話をします。
黒人の大統領が出るほどアメリカは変わりました。
しかし、まだ肌の色による差別が酷かった時のことです。

一人の黒人女性実業家が体験したお話です。
アメリカのある地方に出張に行った彼女は日曜日の礼拝に出かけました。

一番目の教会では警備の人から追い出されました。
2番目の教会では礼拝堂までは入ったのですが会衆からの
厳しい目つきに耐え切れず教会を出ました。

3番目の教会では何のこともなく入ることができました。
礼拝が始まり牧師先生が講壇の前で言いました。
“ここに相応しくない人が入っています。”

彼女はこみ上げる涙を堪えながらその教会をあとにしました。
そして近くにあった丘に登り一本の木にすがり付いて泣き叫びました。
”神様、わたしはあなたに礼拝をささげたくてもささげることができません。“

しばらく泣き叫んでいると”娘よ“という声が聞こえました。
彼女が振り返ってみるとそこにはイエス様が立っていました。

イエス様は彼女に言いました。
”愛する娘よ、あなたが今日行ったあの教会にわたしも入ることができなかった。
彼らはいつも自分たちで賛美し礼拝するだけでわたしはいつも門の外にいた。
愛する娘よ、今日はわたしと二人で礼拝しよう。“
その日、彼女はイエス様を一人じめして礼拝をささげました。

そこにはすばらしい教会の建物や立派な賛美はありませんでした。
しかし、その日彼女はまことの礼拝をささげることができました。
そこには彼女を追い出した教会にはいなかった神様が共にいたからです。

世の中で、また教会の中でも教会の建物や設備、信者の数によって
教会を判断する傾向があります。

しかし、その教会の中に、そのささげる礼拝の中にイエス様がおられなかったら
それはただの自己満足の形式的な礼拝に過ぎないのです。

どんなに貧しい状況であっても一人の信者もなくインターネットで
礼拝をささげることになっていてもそこにイエス様が共におられるなら
それこそがまことの礼拝になるのです。

どれほど立派な設備が整っていても沢山の献金が捧げられても
多くの人々が参加してもそこにイエス様がおられなかったらそれは失敗した礼拝です。

毎週、また毎日のように色んな国々で神様に捧げる礼拝を行っています。
立派な建物の教会から小さい教会、多くの人々が集まる教会から一人だけの教会、
沢山の献金が集まる教会から少ない献金の教会までさまざまな形の教会があります。

しかし、一番大事なことはその礼拝の中心に神様が折られること、
そして礼拝を捧げる人々の心が真実に神様を求めていることなのです。
あなたは今、まことの礼拝を捧げていますか。

それでは、ヨハネの福音書4章の24節を告白して終わります。
「神は霊ですから、神を礼拝するものは霊とまことによって
礼拝しなければなりません。」
  

Posted by 青い鳥 at 15:23Comments(0)説教

2012年06月19日

説教ー待っておられるお父さん(2009年10月27日)

説教ー待っておられるお父さん(2009年10月27日)
私はいま奈良県生駒市にある生駒聖書学院という学校で勉強している学生です。
生駒聖書学院はレオナルドクートというイギリス人によって立てられました。
今年で80周年を迎えています。

原則学生は全部寮生活をしています。
月曜日を除いて火曜日から金曜日まで朝5時に起きて
5時30分のラジオ体操で一日の日課が始まります。

学院の授業ではスーツを着て参加します。
日の出が遅い今は星が見える夜明けの時間スーツを着たままラジオ体操をする
学生たちを見ることができます。
最初はとても戸惑いましたが最近は慣れてきました。
しかし今でも馴染めない光景の一つはスーツを着たまま草刈をしたり
荷車を運ぶ男の学生たちの姿です。
いつも見るたび笑ってしまいます。
日課の中で一番大変なのは朝の1時間の猛声祈祷のことです。
初め猛声祈祷と聞いて聖書に出てくるモーセという人だと思っていました。
しかし、それは大いなる勘違いで猛烈な声という意味でとにかく大きな声で
する祈りのことでした。

2階の礼拝堂に集まりみんな声を張り上げて祈ります。
問題なのは正座をして祈るので正座になれてない私には
いまだにしびれる足にいつも悩まされています。

学院は年に3回の休みがあります。
夏、冬、春休みには寮は閉鎖されるので学生たちはみんな
自分の家や教会に帰ります。

私は 和歌山の生活を全部整理して学院に入ったので
休み事に実家の韓国に帰ります。
1時間40分の飛行の時間ですが学院から韓国の実家に着くまで8回の乗換えと
8時間近く掛かるので帰るたびくたくたになります。

しかし、私を待っている母や兄弟がいるから文句を言いながら
喜びを持って帰ります。
日本と韓国、言葉が違って文化の違う国で離れて暮らす家族が
毎日のように電話で話しをし3ヶ月ことに再会をしています。
交通の便が発達したおかげで地球の反対方の人々にも数ヶ月ではなく
数時間で会える時代になりました。
しかし、この地球の中で同じ民族で、同じ言葉を使い、同じ文化を持ち、
車で数時間も離れてない距離に生きていながら会えない人々がいます。

世界で唯一統一されていない国、
韓国と北朝鮮の人々のことです。

韓国は今から59年まで同じ民族が思想によって別れ
3年間の戦争の後二つの国になりました。
38度線を境界線に今も北と南は厳しい状況で対置しています。

戦争から逃れるため思想を守るため色んなことで多くの人が南のほうに
逃げてきました。南のほうから北のほうに行った人々もいます。

彼らはその時、今の別れが永遠の分かれになるとは思わなかったはずです。
ただ、数日または数ヶ月の事だと言いながら再会を約束して別れたと思います。
しかし、もうすぐ60年近くなります。

30年前に赤十字社の働きで北と南で別れた人々が再会することができました。
そのヨイドの放送局の周りの掲示板に張られ張り紙の数は
どれほど家族を探している人々が多いことかを目で見て
実感できるほどでした。

戦争の最中で離れてしまった子供を兄弟を親を探す内容の張り紙に
テレビの画面を見ながら涙が止まらないほどでした。
やっと会えた人々の感動の涙が生のまま流されるテレビに
人々は釘付けになりました。

その時、毎日のようにテレビに流れた曲の名は
”誰かこの人を知りませんか?”という歌でした。

離れてしまった恋人を切に探している内容のその歌は感情丸出しの家族の再会の場面にとても似合い聞いている人まで切なく悲しくさせました。

今も韓国と北朝鮮では多くの人々が愛する家族に
会いたくても会えない状況で暮らしています。

愛する人の声を聞きたくても話をしたくても会いたくても
38度線の壁にぶつかり愛する人々の名前を呼びながら死んでいく人々がいます。

中国の漢字に断腸の思い、 断腸の悲しみという言葉があります。
晋時代に一人の武士が家来と共に旅したとき、
家来が子ザルを一匹捕まってきました。

その子ザルを追って母ザルガ百里の距離を川沿いに沿って付いてきました。

やっと船に飛び乗った母ざるはそのまま倒れて死にました。
その母ざるの腹を割いてみたところ、その内腸はずたずたになっていました。
子ザルをとられた母ざるの悲しみがどれほどのものだったか
想像できると思います。

動物の親子の別れでもこんなに心が痛く会いたくても会えない心の苦しみは
表現できないほど悲しいのです。

それでは「ルカの福音書」15章11節から24節までをお読みいたします。
また言われた。「ある人に、二人の息子があった。ところが弟が父親に言った。
”父よ。あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください。
それから幾日とたたないうちに、弟は自分のものを全部ぼりまとめて
遠いところへ行き、そこで放蕩にみをもちくずして財産を使い果たした。

何もかも浪費してしまった後、その地方にひどい飢饉があったので、
彼は食べることにも窮し始めた。
そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、
その人は彼を畑にやって豚を飼わせた.

彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが
何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ち返って言った。
父のところには食物のあり余っている雇い人が大勢いるのに、
わたしはここで飢えて死のうとしている。立って父のとことへ帰って、こう言おう。

父よ、わたしは天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました。
もう、あなたのむすこと呼ばれる四角はありません。
どうぞ、雇い人のひとり同様にしてください。

そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、
父は彼を みとめ、 哀れに思って走り寄りその首をだいて接吻した.
むすこは父に言った。父よ、わたしは天に対してもあなたにむかっても
罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません。

しかし父は僕たちに言いつけた。さあ、早く、最上の着物を出してきて
この子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足に履かせなさい。
また、肥えた子牛を引いてきたほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。
それから祝宴が始まった。

生駒聖書学院は神様の言葉”聖書”を学ぶ学校です。
わたしたち人間は神の形に似せて造られ神の息によって生きた人になりました。
この世の全てのもの、太陽や月、星、動物や植物は
神様がわたしたちに下さったプレゼントです。
元々私達人間は神様と話ができ親しき関係でした。

しかし、私達人間が罪を犯したとき、神様との間には
越えられない壁ができてしまいました。
神様との道が閉ざされた時から私たちには死と共に
苦しみや病が数えられないほどの色んな悲しみが起きるようになりました。

人間には埋められない空洞があるといわれています。
その空洞を埋めるのは神様しかありません。
その空洞から来るむなしさを癒すために人は色んな事に走ります。
富を追う人、人間から慰めを得ようとする人、動物から趣味から
お酒やギャンブルでその空洞を埋めようとします。
しかし、どんなことをしてもそれを埋めることはできません。

そんな人間を哀れみ、二千年前に神様が人間の体を借りて
私たちに会いに来てくれました.
クリスマスはその神様、イエスキリストの誕生を祝う日なのです。

人間がどんなことをしても埋められない空洞を
人間がどんなにあがいても越えられない壁を打ち破るため
イエスキリストは十字架に掛かりました。

その壁になった原因である人間の罪の問題を解決するために
イエスキリストが私たちの罪のために十字架にかかり
3日後に復活したそのことを信じることにより神様との関係が回復します。

神様の子になることができます。
罪からくる死から永遠に解放されます。心の空洞を埋める喜びがあります。
しかし、それを知らない多くの人々がいます。

私たちはそれを知ってそれを信じて神様の子供になっていますが
この世の中には特に日本には未だにそのことを知らない
または信じない多くの人々がいます。

彼らは今もその空洞を埋めようといろんなことをしたり
そのむなしさに耐え切らず自ら師を選んだりします。
先、読んだルカの福音書15章の話は罪の中で彷徨っている
私たちを待っておられる天のお父さん、神様の話です。

ここには二人の息子が出ています。
弟が父に財産の分け前をくださいといいました。
それで父は財産を二人に分けてやりました。
弟はその財産をまとめて遠い国にいきます。
そして、父からもらった財産を湯水のように使ってしまいました。
弟は全ての物をなくして食べるのにも困り果てたとき初めて
自分の父を思い出し、自分の過ちを悟り父のところに帰ってきます。

私たちもこの弟のように神様から離れ気ままに生きてきました。
しかし、神様から離れて生きるには限界があります。
人生で出会う色んな試練の中で私たちは神様を求め神様の前に帰ります。
財産をなくしてまたは癌になって、交通事故にあってまたは離婚で
さまざまな苦しみの中で私たちは自分たちの愚かさを悟り
神様を求めるようになります。

神様はそんな私たちをいつでも待ってくださいます。
ルカの福音書15章の20節にはこう書かれています。
「こうして彼は立ち上がって、自分の父の元に行った.
ところがまだ家までは遠かったのに父親は彼を見つけ、
かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」
弟が自分の家まで遠かった所から父親は自分の息子をみつけは知り寄ってきたのです。

13節には彼は遠い国に旅立ったと書いています。
彼が全財産を使い果たし、食べるにも困り果て乞食のように帰ってくるまで
どれ程の年月が流れたでしょう。
息子がいつ帰ってくるか誰にもわかりません。
しかし、この父親は自分の所から出て行った息子を待ち続けて
毎日のように道端で待っていたと思われます。
すべてを失って帰ってきた息子に対してこの父親は
ただ嬉しいばかりで受け入れています。

24節にはこう書かれています。
「この息子は死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが
見つかったのだから」と言って僕に祝宴を開くように命じています。

この父親は自分の息子が成功してくるから喜んだのではありません。
自分の財産を使い果たしすべてを失った罪びとのような息子が
帰ってきただけで喜んでいるのです。

私たちは神様によって造られました。私たちは神様の息で生きた人になりました。
私たちは神様のすばらしい作品です。
しかし、私たちは気ままに生きるため神様から離れて
自分の思いのままに暮らしています。

けれども、自分の力で、能力で生きるには限りがあります。
ありのままでいいのです。
失敗したままでも、望みを全部失っていてもそのままでいいのです。
神様は私たちを待っておられます。
私たちが神様の前に帰るだけで私たちの父なる神様は私たちのありのままの姿を抱きしめてくださり、口づけして祝宴を開いてくださいます。

死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから
天の国ではパーティが開かれるのです。
どうぞ、私たちのために命までささげるほど罪人の私たちを
愛してくださった神様の前に帰りましょう。

韓国と北朝鮮の人々は38度線の壁がなくならない限り会うことができませんが
私たちは今この瞬間でもイエスキリストを信じるときその神様に会うことができます。

最後にわたしの母の話で終わります。
わたしには7歳年上の兄が一人いました。
その兄は20年前に行方不明になっています。

30万トンと思いますが国際貨物船に乗って南米のチリという国から
日本に向かう海の上で乗組員全員と共に船は消えました。
2週間以上探しましたが結局見つかりませんでした。
その時、3ヶ月だった甥は今大学生になりました。

今でもたまに兄との最後の電話を思い出し涙するときがあります。
”日本によって韓国に帰るからその時会おう。”と言う言葉が最後に聞いた兄の声です。

今、母は70歳を越えました。
母は今でも兄を密かに待っているのではないでしょうか。
わたしの母は聖書のお父さんのように帰ってきた息子を
抱きしめることはできませんでした。
しかし、母は心の中でいつも望みを持って兄を待ち続けると思います。

どうぞ、私たちを待っている神様の前に帰りましょう。
ありのままでいいのです。
神様は今でも私たちを待っています。
  

Posted by 青い鳥 at 13:04Comments(0)説教

2012年06月18日

説教―道は聖書にあり(2009年10月8日)

説教―道は聖書にあり(2009年10月8日)

今日、私は「道は聖書にあり」という題名でお話します。

2学期が始まり朝チャぺの日程表を受け取ってから心配性の私の悩みは始まりました。
ゼカリヤ書の4章から6章までの所でメッセージをするように書き込まれていました。
思い出すたびゼカリヤ書を読みながらメッセージをどうやって語るべきか悩みました。

毎週土曜日母教会に帰るたび牧師先生に助言を聞いたりしました。
先生からはメッセージをする箇所を何度も読み祈るように言われました。

聖書を読んでいるうちに試験のとき“さげふり”を“ふりさげ”と書いて
落ち込んでいた同級生の女の子を思い出したりしました。
ゼカリヤに現れた御使いと幻の話は授業でとても詳しく教えられましたが
時間と共にきれいに忘れていました。

先週の土曜日の夕食のことです。
母教会の先生に“こんなに大変なメッセージを毎週書いている先生は
命が縮む思いをしているのではないでしょうか”と私が言いました。

すると牧師先生が大げさな身振りをしながら”それだからちょっと
誉められてもいいですげど“といいました。

隣で聞いていた先生の奥さんが“いつも感謝していますよ。”と
言いながら先生の肩をなでなでしたのでみんな笑いました。

今日私はゼカリヤ書5章の6節から”罪と十字架“についてお話します。
ゼカリヤ書5章の6節にはこう書かれています。
「私が、それは何ですか」と尋ねると彼は言った。
「これは出て行くエパますだ。」
そして言った。「これは全地にある彼らの罪だ。」

この説の罪という言葉がずっと頭に残って離れませんでした。
西洋の文化は罪の文化で日本の文化は恥の文化だといった人類学者がいます。

キリスト教が長年続いた西洋は罪に対する意識がとても高いようです。
キリスト教の教えでは行動で移された罪をはじめ心の中の罪まで問われるので
そのハドルは厳しいものです。

マタイの福音書5章27節から28節にはこう書かれています。
「姦淫してはならない」と言われたのをあなた方は聞いています。
しかし、私はあなた方に言います。誰でも情欲を抱いて女を見るものは
すでに心の中で姦淫を犯したのです。」

また同じ5章の22節には
「しかし、私はあなた方に言います。兄弟に向かって腹を立てるものは
誰でもさばきを受けなければなりません。
兄弟に向かって能無しというような者は最高議会に引き渡されます。
またばか者というような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

聖書に書かれている罪から人間誰一人逃れることはできないと思います。
そのため神様は私たちにイエスキリストを送ってくださいました。
すべての罪を背負って十字架に掛かったイエスキリストによって私たちは
その罪から開放されました。

今日、私はその罪から解放されたある人の話をします。
キャリーというホラ小説で有名になったスディーブンキングという
アメリカの作家がいます。

私は彼の本が好きで数冊も読みました。
彼の本は“キャリー”を始め、“シャイーニング”、“デットゾーン”、“スタンドバイ ミ”、“グリンーマイル”まで多く映画になりました。

彼の作品の中にはキリスト教の色が濃く現れています。
その中に”刑務所のリタヘイワーズ“という中篇小説があります。
この小説も映画化され日本では“ショーシャンクの空に”と言う題名で上映されました。

フランクダラボンの監督デビュー作で彼は“グリンーマイル”という映画も
手がけています。
“ショーシャンクの空に”には無実の罪で刑務所に入った一人の男が
自由を得るまでの過程が描かれています。

エリート銀行員のアンディは妻とその愛人を射殺した罪で刑務所に入ってきました。
しかし、それは冤罪でした。
彼は妻とその愛人を殺そうとしたのですが行動まではいたりませんでした。
20年近く刑務所で過ごしたある日、真犯人を知っているという一人の囚人が現れます。
しかし、彼の釈放を望まない刑務所長により自由の門は閉ざされます。

けれども嵐の晩、主人公のアンディは19年に及ぶ長い期間
掘り続けた刑務所の壁を通し自由の地に旅立ちます。

脱獄に成功し、降り注ぐ大粒の雨の中で両手を広げて喜ぶ彼の姿は
忘れられない場面です。
残された聖書の中には磨り減ったロックハンマーを収めるために穴が開いていました。
まさに道は聖書の中にありました。

私はこの映画を見ながら聖書とその中に隠しておいたロックハンマーの意味を
聖書と十字架に置き換えてみました。

殺人までは至らなかったけれど心の中ではもう既に殺人を犯した彼は
刑務所の日々の中でその罪の意識で苦しみます。
しかし、彼はいつか必ず自由になることを信じていました。

19年間刑務所の壁を掘り続けていく彼の姿を思い浮かべながら
私は罪の奴隷になっている人間を解放させるために十字架に掛かった
イエス様の姿を思い浮かべました。

この映画の主人公アンディは聖書の中に隠しておいたロックハンマーで自由を得ました。
今もこの世には罪の奴隷になり自由を求めている多くの人々がいます。

その人々は罪から来る心の葛藤や苦しみから逃れようと色々な道を探します。
宗教に走る人、麻薬に走る人、色々な趣味で慰めを得ようとしている人、
答えが見つからず自殺をする人がいます。

しかし、道は聖書にあります。
罪から開放するものは十字架しかありません。

私たちのすべての罪を背負いイエスキリストは十字架に掛かりました。
イエスキリストを信じるとき、あなたの罪は雪より白くなるのです。
すべての罪の束縛から解放されるのです。自由のみになります。
道は聖書にあり、答えはイエスにあります。
  

Posted by 青い鳥 at 17:13Comments(0)説教

2012年06月18日

神学校で語った説教

神学校で語った説教
宣教師の勧めで全く知らない道に進んだ私の神学校の3年間は
問題や悩みの連続でした。

伝動用チラシの配りを始め、人の前に出て話をするのが大の苦手の私は
毎週が試練の日々でした。

3年生になると朝チャぺや伝道集会のメッセージをすることになっていました。
説教が終わるといつも緊張でお腹を壊しトイレに駆け込んだ日々を思い出します。

ブログ更新も疎かになり今まで原稿用紙のままだったメッセージを整理しました。
読みながらメッセージを作るために苦労した日々を思い出しました。

相変わらず聖書の掘り下げる作業は出来ない内容で似たような内容になっています。
時間稼ぎのために色々な証の内容を参考したり牧師先生の説教を引用しました。
ブログにも乗せますのでお読みください。
一緒に勉強していた人々は元気に過ごしているのかしら。
  

Posted by 青い鳥 at 17:08Comments(0)