2013年01月31日

説教ー苦い杯

説教ー苦い杯
今日は宣教師から礼拝の説教を頼まれ久しぶりに説教をすることになりました。
K宣教師との出会いは神学校の3年の時です。
神学校に入学してきたK兄弟を通してです。

私は2011年に神学校を卒業しました。
そして、日本を離れ韓国に帰りました。

1年3ヶ月の間迷いや不安はありましたが慣れた環境でのんきに暮らしていました。
就職のためにウェブデザインという生涯初めてのハドルの高い資格にも挑戦しました。
しかし、去年の6月からまた日本の生活が始まりました。

日本の日々はいつも神様の不思議な導きを感じて過ごしています。
けれども寂しい日本の生活で無性に韓国が恋しくなります。

しかし、今の私には韓国の地は帰りたいけれどなかなか帰れないところです。
何度もあきらめようとした日本での生活はいつも神様によって留められ
戻されているような気がします。

何かのことが起こるたび私の心は揺らぎます。
しかし、そのたび私は神様の御こころとは何か自分に問いかけています。

私は神学校の1年の冬休み、神様に喜ばれる人生を歩みたいと決心しました。
それは一人の韓国人の宣教師の影響によるものでした。

神様の働きをして殉教することを願っていたその宣教師は
私に何度も神様に喜ばれる人生を送るように忠告しました。

その時はなかなか素直に言えなかったけれど今は常に私は果たして
神様に喜ばれる日々を送っているのだろうかと確認しています。

自分の思いよりは神様の思いを優先するように努力していますが
相変わらず出来てない自分に呆れている日々です。

それでは今日の聖書箇所に移ります。
ルカの福音書22章の39節から45節までをお読みします。

『それからイエス様は出て、いつものようにオリーブ山に行かれ
弟子たちも従った。
いつもの場所に着いたとき、いえすは彼らに、
「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。

そして、ご自分は弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、
ひざまずいて、こう祈られた。
「父よ、みこころならば、この杯をわたしから取り除けてください。
しかし、私の願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。
汗が血のしずくのように地に落ちた。』

今日の説教の題名は苦い杯です。
ルカの福音書の22章の39節はイエス様が弟子たちと
最後の晩餐を終えたところから始まります。

過ぎ越しの食事が終わりイエス様は弟子たちと一緒にオリーブ山に登られました。
そしていつもの場所に着き、祈りました。

自分の死を覚悟したときに神様に捧げるイエス様の祈りは大変なものでした。
44節には汗が血のしずくのように地に落ちたと聖書の著者は書いています。

血のしずくのような汗は実際にありえるという話を聞いたことがあります。
お母さんが赤ちゃんを産むときその痛みと苦しみの中で流す汗の成分が
本当に血液の成分に似ていると聞きました。

出産ということはそんな苦しみを乗り越えてこの世に新しい命を送り出すことです。
しかし、男の人はそのような苦しい体験はなかなか出来ないと思います。

けれども男であったイエス様は出産の時に流す、血のしずくの様な汗を流しました。
果たして、イエス様のその切なる祈りは何だったのでしょうか。

それこそ、自分が果たさなければならない使命、
自分が飲まなければならない苦い杯から逃れるためのものでした。

30歳から本格的に始まったイエス様の働きは
バプテスマのヨハネを超えるほどの人気がありました。

当時の権力者や宗教家たちには迫害され除け者にされていましたが
力のない一般の民はイエス様の存在に大喜びしました。

イエス様が現れるところにはいつも命の光があったからです。
罪人が許され、死から命へ、病から健康な体に彼らは変わっていきました。

自分により現れる神様の素晴らしい御業にイエス様はもしかして
誇っていたかもしれません。
しかし、イエス様に最後に与えられた使命はあまりにも惨い、
残酷で逃げたいほどのものでした。

イエス様の時代、イスラエルはローマの支配下にありました。
この世の快楽に明け暮れていたローマの人々は色んな競技をつくり楽しみました。
人を殺す格闘技を好んでみていたローマの人々も顔を背け見たがらない
刑罰が十字架刑でした。

そして、その十字架による刑罰こそイエス様が飲まなければならなった
苦い杯でした。

42節でイエス様は「父よ、みこころならばこの杯を私から取り除けてください。」と
頼んでいます。これこそイエス様の切なる願いだったと思います。
しかし、イエス様は続いてこのように祈っています。
「私の願いではなくみこころのとおりにしてください。」

イエス様の願いはその杯を飲みたくありませんでした。
しかし、最後には自分の思いではなく神様の思いを優先しているのです。


イエス様のあまりにも苦しい祈りに御使いが天から現れて
イエス様を力づけたと43節には書き記されています。

神の御子でありながらイエス様は人間の体でこの世に生まれました。
そして人間の体のまま耐えられなければならない死の杯は
その決心をするだけでも御使いの励ましや弟子たちの祈りを頼むほどの
苦しいものでした。

今、私は日本宣教に来られた韓国人宣教師の開拓教会の働きを手伝っています。
何もない状況から教会に必要なものを一つ一つ買い揃え
今は大分教会らしくなりました。

日曜日の礼拝が終わってからは宣教師の手作りの伝道チラシを人々に配ったり
住宅街の一軒一軒を回りながらポスティングをしたりしています。

神学校の伝道集会のたび、あんなに嫌がっていたことをなぜかやっているのです。
教会開拓からもう既に4ヶ月が過ぎようとしています。
しかし、教会の近くの住民はいまだに一人も訪れていません。

神様の働きだけで一生を捧げた宣教師は老後のための退職金まで
日本宣教に捧げています。

円高が進む中で韓国から送られる宣教献金は
盗まれたように激減しています。
同じく送られる宣教献金が為替の動きにより厳しく変わるからです。

IMFという韓国の経済危機の時にも厳しい状況で韓国に
戻るしかなかった宣教師たちがいます。
韓国から送られる宣教献金が切られたり激減したからです。

今でも日本には厳しい経済状況に苦しみながら
宣教活動を続けている人々がいます。

配っても配っても誰も訪れない教会で
なかなか心を開いてくれない日本の人々に
どうかイエス様の十字架の愛を伝えるために日々歩んでいます。

夏には厳しい暑さと戦いながら冬には床暖房が恋しく
体の心まで入ってくる寒さに耐えながら日本での宣教を続けています。

そこまで彼らを駆り立てるものは何でしょうか。
それこそイエス様から与えられた最後の遺言であり神様の御心である
人々の救いのためです。

イエス様があんなにも逃れたがった苦い杯、耐えられないほど苦しい
その杯をイエス様は拒むことが出来ませんでした。
神様のみこころだったからです。

そして、そのイエス様の十字架によって流された尊い血により
私たちは救われたのです。

しかし、そのイエス様の愛を知らず、今も罪の中で死んでいく人々がいます。
そして、先に救われたものとして私たちにはイエス様を知らず滅びていく
人々に救いの知らせ、すばらしいイエス様の愛を伝える責任があります。

エゼキエル書33章に書かれた御言葉を読むたび、私は心から怯えます。
あまりにも恐ろしい警告が書かれているからです。

それではエゼキエル書33章の7節から9節までをお読みします。
『人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。
あなたは私の口から言葉を聴くとき、私に代わって彼らに警告を与えよ。

わたしが悪者に「悪者よ、あなたは必ず死ぬ」と言うとき、
もしあなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら
その悪者は自分の咎のために死ぬ。
そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

あなたが悪者にその道から立ち返るよう警告しても
彼がその道から立ち返らないなら彼は自分の咎のために死ななければならない。
しかし、あなたは自分の命を救うことになる。』

エゼキエル書のこの箇所を読むたび、私はクリスチャンに与える
警告のように心に響きます。
先にイエス様を信じ救われた人々に神様は命じているのです。
イエス様を知らない人々にイエス様の事を知らせなさいと。

その警告を怠けて、もしも警告を聞くべきの人々が死んだとき、
その血の責任をクリスチャンに問うという恐ろしい責任です。

宣教師の墓場と言われる日本の地で先に救われた者として
日本の人々にイエス様を伝えている宣教師たちがいます。

生活のことを、子供の教育を心配しながら神様のみこころのままに
生きようとしている牧師たちがいます。

その宣教師や牧師の中では飲みたくない苦い杯を
飲んでいる人がいるかもしれません。
もっと楽な人生を送っていたかもしれないのに
唯、神様の命令に従うために狭い道を歩んでいるかもしれません。

しかし、神様を愛すれば愛するほど神様に従うことは
そんなに苦にならないと言っています。
愛すれば愛するほど愛する人の幸せを望み、その人の望みを叶えてあげたいからです。

そして、神様が私たちに求める望みは何でしょうか。
それは愛する人々の救いです。
聖書の全体で神様はそれを常に願っています。
罪の奴隷になっている自分の子供たちが悔い改めて悪の道から離れて
永遠の命を得ることです。

エゼキエル書33章の11節で神様は自分の願いをこのょうに語っています。
『わたしは誓っていう。-神である主の御告げー
私は決して悪者の死を喜ばない。
かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。
悔い改めよ、悪の道から立ち返れ。
イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』

神さまは悪者さえも悔い改めて生きることを切に望んでいます。
そして、その神様の願いを叶えられるのは私たちクリスチャンの役目です。

イエス様を知らず罪の中で死んでいく人々に
私たちはイエス様を伝える責任があるのです。
血のしずくのような汗を流しながら祈られた
イエス様のその切なる祈りと苦しみを十字架の愛を無駄にしてはなりません。

それでは最後に一人の牧師の証で終わりにします。
今は数千人が集まる教会の牧師になりましたが
開拓当時は酷い状況でした。

地下のビルの一箇所を借りて行う礼拝は雨の日には雨漏りで
水浸しになるほどでした。
狭い部屋を区切り一様礼拝室と牧師室及び事務所を作りました。

毎週語る説教やなかなか増えない信者さんで色々、悩んでいた時期でした。
本当に自分は神様の御言葉を人々に伝えているのだろう、
牧師としての使命が本当にあるだろうと葛藤する日々でした。

そんなある日曜日の出来ことです。
礼拝が始まり用意していた説教を語り始めました。

そして、説教の途中に始めてみる中年の男が教会に入り
一番後ろの席に座りました。
彼は牧師を睨む様な目つきで説教を聴いていました。

礼拝が終わり、数人の信者を見送り牧師室に座っていると
いきなり人が入ってきました。
一番後ろに座っていた中年の男でした。
「どうしたんですか。」と聞いた牧師に彼は着ていた上着の中から
新聞紙に包んだ物を取り出しました。

それは新品の鋭い包丁でした。
包丁を手にした彼を見た瞬間牧師は思わず体を後ろに引いたそうです。
すると彼は牧師の前にひざまずきなきながらこう告白したのです。

先生、私は今日人を殺しに行く途中でした。
妻が愛人と駆け落ちしました。
やっと居場所が見つかったので今日は二人を殺してわたしも死ぬつもりでした。

ちょうどこの教会の前を通っていた時、急に思い出したのです。
幼いとき通っていた教会学校のことを。
それで今日が最後だから、死ぬ前に教会に行こうとこの教会に入りました。

そして、驚くことに先生は人を殺してはならないと言う
十戒の説教を語ったのです。
本当に自分に語られる神様の声に聞こえました。
神様の愛を感じました。

先生、私は先生に約束します。
今から妻のところに行って今までの自分の過ちを告白します。
そして、必ず妻と二人で先生に報告しに来ます。
その言葉を残して彼は教会から出て行きました。

それから2週間後彼は本当に妻と二人で教会を訪ねてきました。
膝まずいて許しを請う彼の姿を見て彼の妻も自分の過ちを悟り
お互いに許しあったのです。

このことがあってからその牧師は二度と自分の使命に対して
疑うことはなくなったと言います。
自分の語る説教は神様が誰かのために語られると信じ
自分の牧師としての使命にも確信を持ったそうです。

私は神学校の1年の時にITミッションのビジョンを持って
日本宣教に励んでいる一人の牧師に勧められブログ伝道を始めました。
インターネットで全世界が繋がるようになるので
インターネットを通した伝道法として薦められたからです。

外国語である日本語で伝えるイエス様は限界があると思います。
しかし、自分の生活の中で感じた神様の素晴らしさを
みんなに知らせたい気持ちで続けています。

今もイエス様を知らず暗闇の中で自ら自分の命を絶つ人々が
年に3万人を超えている日本の地に神様の声を伝えたいのです。
『なぜ、あなた方は死のうとするのか。』
自分のために命を捧げた神様の愛を無駄にしないで欲しいのです。

そして、今も人生の空しさや生きる意味を見つけられず彷徨っている
人々にイエス様の愛を伝えたいのです。

血の責任を負っている者の一人として
どうか、日本の人々が一人残らず救われますように心から祈ります。
  

Posted by 青い鳥 at 09:20Comments(0)説教

2013年01月30日

城の管理人

城の管理人
寒波による厳しい寒さが続いています。
北向きのワンルームマンションは隙間風が酷くて
この前は玄関の戸が凍り戸が開かなかったほどです。

部屋に座っているとどこからか入ってくる冷たい風で
肩やひざが冷えるので耐えられないぐらいです。

寒さで指が凍え箸が握れないとメールを送ってから
知り合いから電話が掛かってきました。

隙間風対策のビニルシートやテープを張ったらどうかという内容でした。
母からも催促され近くのホームセンターに出かけました。

陳列されている商品をあちこち覗きそれらしきものを見つけました。
説明書を読んでみると虫除けという言葉が気になり近くにいた
店の店員さんに聞きました。

すると捜し求めた商品の置かれた棚のほうに親切に案内してくれました。
2メートルのものを2個買ってきて早速作業に取り掛かりました。

一番強い風が入ってくる玄関の戸に隙間風用のテープを取り付ける工事です。
はるばしょについていたほこりを綺麗に拭き恐る恐るテープを張っていきました。

慎重に張っていきましたが終わってみると上手く出来ないところが目に付きます。
いつも感じていましたがまた自分の不器用さにがっかりしています。

テープ2個では足りないのでもう一つ買って完成しなければなりません。
気のせいか大分寒さがましになっている気がします。

大掛かりな工事が終わり部屋に戻り頼まれたレポート入力をしながら
娘の保育園時代のことを思い出し一人で笑いました。

髪の毛の世話が出来ない母だった私のせいで娘はいつも
短い髪をしていました。
少し髪の毛が伸びてきて落ちてくる髪の毛で気になり
頭の真ん中に一つに髪の毛を結んで保育園に送りました。

なんだか角のある鬼のような感じです。
夕方娘を迎えに行くと娘の髪の毛が二つのリボンでかわいく結ばれていました。
やさしい保育園の先生が気を利かせてくれたと思われます。

そんなことが度々続いていたのですが
一つの角が生えたような鬼方の髪の毛はずっと続きました。

振り返ってみて不器用な母の娘として生まれた娘にすまない気持ちです。
今でもそのややしい先生の正体は分かりませんが
本当にそのやさしさに感謝しています。

ベランダから入ってくる隙間対策も残っているので
起用でやさしい城の管理人が欲しいことごろです。
やはり男前がいいな。

  

Posted by 青い鳥 at 08:38Comments(0)

2013年01月29日

制服と個性

制服と個性
引っ越したときにもう既に始まっていた駅の近くの工事現場は
日に日に建物らしく形になりつづあります。

この町の澄んだ空が大好きだったのにまたその空は少し小さくなると
思うと少し寂しい気がします。

工事現場を通り過ぎるたび車や歩行者たちを案内する
制服姿の警備員たちが目に付きます。

ある時は男の人がある時は女の人が立っています。
駐車場に入る車を案内する彼らの姿を見ています。

数ヶ月間駅の方に外出するたび見かける彼らの姿を見て
ある日思いつきました。

毎日のように変わる彼らの顔をほぼ見たことがなく
ただ制服だけ見て通り過ぎていたことです。

警察や軍人、学生や会社員など社会の色ん団体や集まりには制服を着用しています。
それぞれ色々な意味や思いがあって制服を着用していると思います。

今まで考えたことがなかったけれどやはり制服姿は
その人を見るよりは制服のことに目が取らわれてしまうことに気がつきました。

道を歩いている人々の顔や服装を何気なく見て通り過ぎるのですが
制服姿の人はただぼんやりと制服だけの印象なので不思議ですね。

そこに個性や差別の問題が絡んでくるかもしれません。
さて、駅前のあの建物が完成したらどのようにこの町も変わるだろう。
  

Posted by 青い鳥 at 08:24Comments(0)

2013年01月28日

一つの家庭が崩壊するとき

一つの家庭が崩壊するとき
マクテェイン式聖書通読を始めました。
創世記の27章の内容で書かれている一つの家庭が崩壊する話を
読みながらとても心が痛くなりました。

聖書の中でいつまでも好きになれない人物がヤコブです。
彼の人生は母の胎内から欲張りの性格が現れています。

そして人生を終えるまで幸せだと告白するには程遠い人生を過ごしました。
長子の権利をお兄さんから譲ることを始めお父さんの祝福まで
とにかく手段を選ばず自分の欲しい物を手に入れたけれど
結局愛する家族全てを不幸にしてしまます。

代々続くことになるエサウの子孫との争いや敵対の原因は
彼の間違った人生の選択から来たものだと思います。

多分霊的にも弱くなっていたと思われるイサクの判断ミスは
妻の過ちと兄弟の敵対関係まで招くことになります。

もうすぐ死ぬだろうと思っていたイサクは話によるとヨセフの時代まで
生きていたと聞きました。

ひいきによる歪んだリベカの愛情も結局自分を不幸にしています。
夫であるイサクや長男であるエサウとの関係はなかなか回復されない
大きな傷を残したのではないでしょうか。

自分の嫁たちが親の気に入らないことを知ったエサウはもっと反発して
もう一人の異邦人の妻をめとる行動をとっています。

生きるのがいやになったという嘆きを残したリベカは死ぬ日まで
あんなにも愛していた次男のヤコブには二度と会えませんでした。

平和であった家庭を襲った一つの悲劇を読みながらわたしは
いくらいい目的であっても正しくない方法で行うことは
結局自分や周りの人々まで不幸にしてしまうことだと思っています。

目に見える成果や結果をこの世の人々は欲しがります。
しかし、もしも過程が間違っていたらそれが果たして
その人に本当の祝福になるでしょうか。

偽りや嘘で築き上げた成功や幸せは結局むなしいものです。
ヤコブの人生を読むたびいつも彼を反面教師として心に刻んでいます。

  

Posted by 青い鳥 at 08:10Comments(0)

2013年01月27日

坂は苦手

坂は苦手
寒くなり部屋の中さえ動きたくない日々が続いています。
長い引きこもりのせいで体中危険信号を発信していたので
本格的に体を動かすつもりで出かけました。

少し和らいでいた寒さがまた一段と厳しくなりつめたい風が吹き舞うなか
手には手袋、首にはマフラを巻き毛のついたコートを着て家を出ました。

いつも近くの図書館ばかり利用していたので久しぶりに
家からはだいぶ離れている図書館まで散歩を兼ねた運動のつもりです。

顔の当たる風がとても冷たくひんやりしています。
周りの住宅街の様子を覗いたり澄んだ色に広がっている空を眺めながら
歩き続けました。

そして、この町の一番苦手な坂を上ることになりました。
あまりにもあちこちに坂が多いので自転車を利用する人も少なく
大体の人が運動靴を入ってリュックサクを背負って歩くぐらいです。

結構きつい坂をハアハアと息を切らしながら上りました。
やっぱり運動不足で体力は確実に落ちています。

いつの間にか顔には汗が出て体が熱く感じるほどです。
久しぶりに流す汗です。

坂はいやだなと呟きながら頂上まで上り終えてからは
大分楽に感じる下り道を歩きました。

図書館で借りた5冊の本を持って帰りながら外の風に当たることは
いいなど思いました。

途中で道端で出会った二人の年寄りは今日はどの散歩道を歩こうかと
話し合っていました。

70代のように見える二人の元気そうな姿を見ながら
引きこもりの自分を反省しました。

肉体の年齢を忘れずたぶんほぼ毎日散歩をしでいるように思われた
二人の会話を聞きながら刺激を受けています。
若さはもしかして体の年齢ではなく意欲の問題かもしれません。

  

Posted by 青い鳥 at 07:31Comments(0)

2013年01月26日

マクチェイン聖書通読

マクチェイン聖書通読
マクチェイン聖書通読という聞きなれてない聖書通読の誘いが来て
1月が1週間も残ってない日から始めました。

毎日読む聖書箇所のリストを神学校の後輩に頼み
プリントアウットしてもらったからです。

旧約と新約がどんな決まりで組み合わせられたのか全然分からないのですが
とにかく書かれているリストに従い読み始めています。

リスト始めに書かれている順番に読んで行きました。
そして創世記の26章の28節の御言葉が心に残りました。

イサクは飢饉から逃れるために異邦人の地ゲラルに行きます。
リベカのことや井戸の争いなど色々なことが起きました。
けれども、ますます豊かになっていくイサクを妬んでいたアマレク人は
常にイサクに敵対していました。

しかし、28節にはイサクの人生に常におられる神様の臨在を認めた
アマレク人の告白が書かれています。

この告白を見るとき神様のことを知らない異邦人が感心するぐらいの
イサクの人生こそクリスチャンの人生の見本のような気がします。

だいぶ前に韓国で起きた悲惨な電車事件があります。
しかし、その事故に巻き込まれることなく
守られたクリスチャンの話を覚えています。

その日、彼は出張でその都市を訪れていました。
一緒に来ていた会社の同僚と三人で電車を待っていました。

ちょうど電車が来て乗ろうとすると同僚の一人が
自動販売機のコーヒーを飲もうと言い出しました。

彼は体にも悪いし早く電車に乗ろうといいました。
隣にいたもう一人がこのように言いました。
そうしましょう。この人のいうこと聞いて損はないから。
なぜか彼はいつも彼の神様が守っているのだから。

この告白をした人はクリスチャンではありません。
電車を乗るよう進めた人は職場の中でもなぜか不思議にも
神様に守られていると周りの人々が認めるようなクリスチャンでした。

そして、その朝もこの世の人々が言う驚く偶然がありました。
彼ら3人が電車に乗ってホームを去ってから次の電車が到着しました。
その電車こそ韓国の電車事故の中でもあまりに悲惨な状況を招いた
悲劇の電車だったからです。

後で3人が事故のニュースを聞いたときあまりにも恐ろしい偶然に
身震いしたそうです。

しかし、彼はそんなところでも自分を守ってくださった神様に
感謝したと告白しています。

イサク、ヨセフ、イエス様に至るまで聖書には
神様のともに歩む人生を送っていると異邦人さえ認めた人々がいます。

私たちの人生にもそのような神様の素晴らしい臨在を神様を知らない人々が
感じることが出来るとき伝道の道は自然に開かれると信じます。
  

Posted by 青い鳥 at 08:11Comments(0)

2013年01月25日

ありのままの自分

ありのままの自分
テレビで放送されているドラマI.Sにはまっています。
両性を持って生まれた人たちの話です。

昔の話の中でも聞いたことはありましたが
ドラマを通してみる彼らの世界はとても感動的でした。

日本のドラマや漫画をみていていつも思うのですが
本当に色んなジャンルの話が描かれていて驚いています。

普段まったく知らなかった職業や世界についてとても詳しく
事実的に表現しているドラマや媒体にであうたび素敵に思います。

韓国のドラマではないまた別の楽しみがあります。
全てのドラマを撮影して完成してから放送していると聞いている
日本のドラマは最初から最後まで余分のものがなくすっきりして
筋の通った完成度高いドラマが多いです。

ISという聞きなれてない言葉で表現されるもしかして私の周りにも
いるかも知れない人々の話を通してこのドラマは自分と違う人たちを
認めあうことを主張しているように感じます。

ありのままの自分でいられたいと叫んでいる彼らの声は
もしかしてISだけの叫びではなく何かの問題で差別を感じたり
本当の自分をさらけ出すことの出来ない人々の叫びかもしれません。

同情や特別扱い思いやりではなくただ一人の人間として
普通に接してくれることを人々は望んでいます。

相手のことを知らないから偏見や誤解されることがあります。
しかし、お互い相手を知ろうと努力して歩むときその距離は
必ずどんどん近寄ると思います。

違う個性を持っている人として自分と違う意見や姿を持っている人として
また違う価値観や生活や文化や言葉を持っている人として
お互いを認め合うときこの世はもっと自由で幸せな世界になると信じます。

  

Posted by 青い鳥 at 08:10Comments(0)

2013年01月24日

エジプトに戻りたい民

エジプトに戻りたい民
2003年から始まった聖書通読は今でも続けています。
毎朝一番目にすることは神様のみ言葉を読むと決めてからは
出来る限り守ろうと努力しています。
度々守れない日もありますが今は習慣になりつつあります。

日本語の発音の練習もかねて声を出して読んでいます。
この前エレミヤ書を読みながら自分の声があまりにも
激しくなっていたのでびっくりしました。

聖書の内容はイスラエルの民に対して語られる神様の怒りでした。
意識してないうちにどんどん声のトンが激しくなっていくのを
自分で感じ変な気持ちでした。

それから数日間一度もそのようなことはなく平穏な聖書音読が続きました。
そしてこの前聖書を読みながら私は笑みを浮かべていました。

エジプトに戻りたいと願っているイスラエルの民に対する記述を読みながら
自分の気持ちや状況とあまりにも似ていて笑いを堪えることが出来なかったからです。

帰りたい、帰れないという歌もありますが
エジプトを出てから常にエジプトに帰りたかったイスラエルの民
彼らは死ぬ日までたぶんエジプトを夢見てこの世を去って行ったでしょう。

毎日毎瞬間神様の臨在を体験しながらいつも奴隷の地、エジプトを
懐かしんでいたイスラエルの民のように私も毎日のように奇跡を経験していながら
相変わらずエジプトに帰りたがっています。

どうか、神様がこのような私を見捨てず哀れんでくださることを切に望んでいます。
毎日読む聖書を通して神様の気持ちを少しでも感じ取るって最高です。

  

Posted by 青い鳥 at 09:35Comments(0)

2013年01月23日

寂しさのゆえに

寂しさのゆえに
毎週の日曜日は楽しい日です。
神様に捧げる礼拝も大事ですけれど宣教師との楽しい会話や
礼拝後の美味しい食事も楽しさの一つです。

礼拝の1時間半前には教会について礼拝のための準備にかかります。
窓を開けて掃除をし週報や賛美歌を並べたりします。

教会には寒くなってから石油ストーブを買ったので暖かく
日曜日だけは天国の日です。
寒さになれたせいか汗が出るぐらいです。

礼拝後には宣教師の手料理を食べながら1週間の出来ことを話します。
この前は一人暮らしの宣教師から夜あまりにも切なく泣いている子猫に
餌をやった話を聞きました。

元々はあまり猫が好きではなかった宣教師はたまに聞こえてくる
猫の泣き声をあまり気にしなかったらしいのです。
しかし、この前の晩は子猫の泣き声があまりにも気になり
ネットで猫の餌を検索し家中を探して餌を与えたそうです。

そして、宣教師はすこし寂しそうにこう呟いたのです。
この地は人を寂しくさせるね。猫の泣き声まで気になるほどに。

前に家族と一緒に暮らしていたときも一人で過ごしている今も
日本の地にいる時は特に寂しさを感じます。

住めば都という言葉もありますがどうして日本の地は人をこれほど
寂しくするのだろうといつも不思議に思います。

あまりにも忙しい生活に追われ精神的に余裕がなく
家族にも自分の本音を語れない人々の話を見聞きしながら
異邦人の一人でありますがとても切なくなります。

家の中で傾斜の高い階段で滑り落ちたことがあるらしい宣教師は
その時もしかして誰にも発見されず孤独死になる恐れもあるんだなと
心の中で思ったといいます。

その話を聞きながら他人事のようではないと感じました。
果たしてこの寂しい異国で神様は私にどんなことを望んでいるのだろう。

  

Posted by 青い鳥 at 06:42Comments(0)

2013年01月22日

従順と祈り

従順と祈り
神学校の新学期が始まり冬休みから帰ってきた神学校の後輩と
お昼を一緒にしました。

後輩は韓国人で入学したときは本当に日本語もあまり知らず
寮で暮らしながら日本語で進む授業についていけるか
周りの人々も心配するぐらいでした。

しかし、色々な苦難を乗り越え後2ヶ月足らずで卒業を迎えます。
食事をしながら本人も全てが神様の恵みだと告白していました。

どうしていつもそのように平安で笑顔でいられるのか聞いたところ
聖書を一つの言葉で表現したら何ですかと反対に聞かれました。

恵みまたは救いではないかしらと答えると
自分は従順だと思いますと答えました。

いくら聖書を沢山読んで礼拝や教会のことに熱心でも変わらない人は
実際は聖書の言葉に従順してないからだといいました。

ただ一つの御言葉に従順するだけでも人間は変わるので
人は神様を愛すれば愛するほど神様の御言葉に従順できると言いました。

愛する人は自分が愛する人の喜びと幸せを望み、
愛する相手が自分に求めることを叶えてあげたいと望みます。

相変わらず神様の言葉に従順できてない私はいまだに自分がかわいく
自分の人生の傷を哀れみ嘆いているから神様よりは自分を愛しているのですね。

後輩は自分が歩んできた3年間を振り返ると色々なことがありましたが
全てのことが結局自分のための一番いいように神様が導いてくださったと
告白しました。

最初神様に出会ったときはあまりにも嬉しくて教会で任されることを
一つも断らずにやってきたといいます。
そして、その中で従順を学び日々の生活を人生さえも神様に委ねる信仰を
学んできたと言います。

とにかくその信仰にすごいですねという言葉しか出ませんでした。
帰りの時まで従順と神様との会話である祈りを懇々と言い聞かせながら
後輩は教会に帰りました。

従順と祈り、本当に私には難しい注文だな。
  

Posted by 青い鳥 at 09:42Comments(0)