2013年08月31日

生きる義務

生きる義務
不採用の知らせが届くたび落ち込む日々が続いています。
W市では18回の面接を経てやっと仕事が決まりました。
W市全域を自転車で回った記憶があります。

いまはもっと景気は悪くなり私はまた数年分年を重ねました。
なかなか決まらない仕事、そして日本宣教への確信が得られず悩みの日々です。
久しぶりに電話で高校の友達と話を交わしました。
若い時とても熱心に生きた友達が今は経済にも豊かになっているけれど
何か人生の空しさに駆られて苦しんでいると言っていました。

子供たちもある程度成長して巣立ちした後残る自分の人生に対する空しさの様です。
同じ思いをする中でついつい生きることについて考えたりします。
経済的に自由にならないと精神的にも自由になれないと言います。

振り返ってみると私の人生はいつも情熱の欠けた日々の連続でした。
灰色のような日々、傍観者の生き方、鬱で悲観的な性格
自分の人生から逃げ出そうとした多くの心の中の自殺願望、、、
そんなくよくよの生活の中で読んだ本の中には生きる義務について書かれていました。

13年間の療養生活を送った三浦綾子さんも同じ悩みを持っていました。
病院のベットで生活して食事の世話から下の世話までしてもらわなければ生きていけません。
毎月かかる病院代や薬代、自分が生きる価値のない廃品のように思えたそうです。
しかし、そんな彼女に幼馴染のクリスチャンだった婚約者はこのように言いました。
「生きるのは義務だ、ただしい務めだ。」

人間として生まれてきた私たちはすべて神の形をした神の最高傑作品です。
生まれつき盲人さえ神の栄光を現すだめに生まれたとイエス様は言いました。
まして、その神の傑作品である命を自ら断ってしまうことは
結局神から与えられた使命を放棄し神の傑作品を損なう行為です。

時々私は誰にも必要とされず生きる価値のない人生だと落ち込んだりします。
しかし、死を選ぶ勇気を持たず思い悩む日々の中で生きる義務について思い出します。
許された時間の中でただしい勤めを果たさなければならない責任感に駆られます。
ストレスが積もる中、数年ぶりのひどい頭痛に眠れないほど苦しんでいます。
私の重荷を神様にゆだねることが出来るようにお祈りしてください。
  

Posted by 青い鳥 at 08:34Comments(0)

2013年08月30日

天国は圏外

天国は圏外
面接の結果待ちの日々の中であまり気持ちが落ち着きません。
ブログの更新も終わり毎日こなしている勉強もやる気が出ないので
録画したまま見てなかった番組を見ました。
録画リストの中から番組を見て次から次へと削除していきます。

40時間以上の録画時間が10時間も残されていません。
結構な量の映画を残しているからです。
お兄ちゃんの花火という日本映画は3回も見たのですが見るたびいつも涙を誘います。

亡くなった妹から一通のメールがお兄さんに届きます。
送りたい日に届く予約機能のメールです。
今はもう会えない愛する妹の生きている姿に兄を励ます声にお兄さんは嗚咽します。

引きこもりになって自分の部屋から出ないお兄さん、
タクシーの仕事でなかなか家族と一緒に食卓に着くことのできないお父さん
そして病気で入院している妹など
4人の家族が一緒に食事をとることが夢だというお母さんと
お兄ちゃんの花火を見たかった少女の夢は叶えられませんでした。

亡くなった妹にかけた携帯は圏外の印がついていました。
天国は圏外かとお兄さんは呟きます。
愛する人々と別れを経験していない人はほぼいないでしょう。
生きている限りまた会える希望は残されています。
しかし、二度と会えない悲しい別れもあります。

やさしい笑顔を見ることも声を聴くこともできない別れを前にして
人々は届かない電波に届かない思いに涙します。
しかし、一緒に過ごした思い出の分だけ幸せな時は記憶の中にしっかり刻まれています。
恋しい人が多いだけ会いたい人が多いだけその人は豊かな人生を過ごしたかもしれません。

幸せとは平凡なものですかとある歌手は問いかけています。
いつもの変わらない日常の生活の中で幸せは潜んでいます。
二度と帰れない大事な日々を幸せな瞬間で満たすことが出来ますように。
今も誰か愛する人々の別れで悲しんでいる人々がその悲しみの量だけ
幸せな思い出を見つけることが出来るよう心から祈ります。
  

Posted by 青い鳥 at 08:29Comments(0)

2013年08月29日

道案内の親切な人々

道案内の親切な人々
本格的な仕事探しが始まりました。
ハローワークに行ってパソコンで仕事を探して興味のある求人は
相談窓口で相談をして面接に行く日々です。

1日に2件もの面接が有った日はまだ日照りの厳しい暑さの中で
N地域とO地域を地図を片手に持って道を訪ね歩き回りました。
面接に行くたびハローワークの職員が出力してくれた地図を持って行くのですが
方向音痴の私は相変わらず道に迷って人々の親切に助けてもらっています。

面接場所に日笠と地図を持っててくてく歩く道は1回も迷わず行った覚えがありません。
2回の面接が重なった日も同じ有様でした。
初めての道のりは慣れてない分もっと遠く感じます。

何回も地図を確認していきましたが地図に書いてある建物がほとんど見当たらず
道沿いに有った事務所に寄りました。
目的地から逸れていたらしく親切に教えてくれました。
やっと目当ての喫茶店の前です。
しかし、いくら探してもそれらしい建物も入口も見当たりません。

何度も行ったり来たりした挙句結局道路で作業していた人に尋ねました。
教えた通り住宅街の狭い道を歩いていきました。
大型犬を5匹ぐらい飼っていた家では犬たちが吠える音でびっくりしました。
そこを逃げるように走っていてうろうろしていると先道を教えてくれた人が
面接場所のすぐ真ん前の人だったらしくまた面接場所を教えてくれました。

午前の面接が終わり今度は午後の面接です。
初めての駅に降りてまた地図を見ながら歩いていきました。
駅から10分ぐらいだと聞いたのに過ぎ行く風景に何となく心配になり
通行人に道を尋ねました。

面接場所を聞いたその人はそこは歩いていけないから
バスに乗っていきなさいと言いました。
そして、バス停まで案内してくれちょうど着いたバスの運転手に
私が降りる停留場まで頼んでから自分の道を行きました。

やっと言われたバス停に着きバスから降りました。
どの方向化も検討も付かず途方にくれました。
道には歩く人もいなくちょうど老人福祉施設から出てくる
老齢の女性に道を尋ねました。
自分もその方向に行くからと面接場所まで一緒に歩いていきました。
のどかな田舎の道を歩きながら初めての道に迷った話をして別れました。
迷った挙句親切な人々に助けてもらって結局2分ほど遅れましたが
面接場所に辿り着き無事に面接を終えることが出来ました。

方向音痴である私がハローワークの人が出してくれた一駅違う
就業場所の地図を持って面接場所に向かっていたの起きたハプニングでした。
まだ残暑の厳しい夏の一日の思い出です。
色々悩みの中で日々を過ごしていますが1日に4人の人々の
親切と善意を味わった幸せな日でした。
どうか、神様あの親切な人々を祝福してください。
  

Posted by 青い鳥 at 06:35Comments(0)

2013年08月28日

真の礼拝者たち

説教ー礼拝について(真の礼拝者たち)
神学校の2年間慣れない神学用語を使って説教を語ったことがあります。
日常生活の日本語はあまり不自由しませんでした。
しかし、韓国語でもなかなか読んだことのない聖書を使い
日本語で書いて説教をすることは大変な作業でした。

3か月の間に2,3回の説教の原稿を書くたび例話を集めたり書いた原稿を
教会の先生に見せて直したりと毎回人々を巻き込む大事件でした。
1か月に1回の説教でひーひしていた私が4週間連続で説教を語る使命を任されました。
今回は礼拝についてです。

私たちの教会では礼拝の度に告白する言葉があります。
それはヨハネの福音書4章24節です。
「神は霊ですから、神を礼拝するものは霊と誠によって礼拝しなければなりません。」
この御言葉は宣教師が礼拝に対する自分の信仰の告白として捧げる御言葉です。

私が卒業した神学校は原則学院生は寮生活でした。
けれども、春、夏、冬の休みの期間は寮で生活することが出来ませんでした。
そして、毎回学期が終わると韓国に帰りました。
海を渡る8時間がかる旅行は毎回疲れました。
しかし、会いたい家族がいるから旅の疲れに耐えることが出来ました。

1か月から2か月の休みにはいつも母と二人で近くの教会に行きました。
数千人の信者さんが集まるその教会は大画面のテレビで礼拝を流していました。
前の席や講壇の近くに座っている人は先生や司会者または聖歌隊の様子を
見ることが出来ます。

しかし、広い会堂の後ろにいる人々は礼拝の様子がほとんど見えません。
そして、所々設置されているテレビ画面を見て礼拝に参加するのです。
テレビがつけられているのは大きな柱です。
日本のように長くても1時間や2時間かかる礼拝ではなく3時間近く座りっぱなしの礼拝です。
その長い礼拝のせいか時々気に障る人々の礼拝の姿があります。

一つは眠っている人、もう一つは携帯をずっといじっている人です。
時には礼拝の中で騒がしく鳴り響く携帯のベルが人々を苛立たせます。
もっと驚いたことは礼拝の途中で携帯で通話をしている人のことです。

周りで起きている様々な人々の行動を見ながら私は幾度も自分に問いかけました。
これが本当に神様に喜ばれる礼拝者の姿なのか
人々に会うときも私たちは目の前にいる人々に真剣に接します。
人々の目をしっかり見て相手の話に耳を傾けます。
時には相槌を打ったり自分の意見を言って反応を示します。
目の前にいる人を尊重してそれを態度で示すのです。

前にある人と会う約束をして一緒に時間を過ごしたことがあります。
二人で話している途中相手の人はずっと形態を触っていました。
その様子を見てあまりいい気分にはなりませんでした。
相手が見えない電話の時もたまに感じることがあります。
相手が向こうで何か気を取られているときはそれがそのまま伝わってきます。

一人の成功したある人物の証を聞いてとても感心したことがあります。
それは上司や大事な客との話に臨む時の彼の態度でした。
自分の上司に大事な報告をしに上司の部屋に入るとき彼はいつも形態の電源を切り
バッテリーまで外したといったのです。

本当に心から愛してまた尊敬している人と時間を過ごすとき私たちはどのような
態度を取るでしょうか。
果たしてその大事な時間を居眠りや携帯を触ることで無駄にするでしょうか。

隣にある地図のうえでは点にひとしい存在感のない国が韓国です。
今は二つに分かれてもっと小さくなっている国、しかしそのような国の最高人物で
ある大統領に会う時さえ数回の調べを受けてやっと会えることが出来ると聞きました。

ただ数年の任期の間過ごす権力の座にいる一人の人物に会うことに
人々はあまりにも感激したり栄光として思います。
大統領の官邸に招待されただけでも人々ははしゃいだりします。
そのような栄光に思う人に会ったとき人々はその大事な時間を無駄に過ごすでしょうか。
それでは、私たちが毎週日曜日、または水曜や金曜日など教会で行われる礼拝は
誰と過ごす誰に捧げる時間でしょうか。

皆さんにとって礼拝はただ賛美を歌ったり牧師の説教を聞いたり
祈りをする時間として思っているでしょうか。
礼拝は罪びとから贖ってくださった私たちの創造主である神様に捧げる
神様と私たちのとても大事な出会いの時間です。

マタイの福音書27章50節から51節にはこのように書かれています。
「この時イエスはもう一度尾大声で叫んで息を引き取られた。
すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き
岩が裂けた。」
この箇所はイエス様が十字架に掛かって死んだ時に起きたことについて書かれています。
人類の先祖であるアダムとエバの背きにより人類は罪びとになりました。
そして、その罪により私たちは神様と永遠に離れて生きる存在になりました。
そんな私たちが向かうところは永遠の死、地獄でした。

しかし、神様はそのような私たちをあまりにも不憫に思い
仲裁者としてイエス様を送ってくださったのです。
イエス様が十字架の上で私たちの背きの罪を贖って裁きを受けたとき神殿の幕が
真っ二つに裂けました。
神様の所へ向かう道が開かれたのです。

旧約時代には人々は自由に神様の前に出入りすることが出来ませんでした。
アロンという選ばれた祭司の子孫たちが人々の罪を贖う捧げものを持って
神様の所に出ることが出来ました。

羊や牛または他に血を流す動物の上に自分の犯した罪を乗せて捧げる礼拝は
少しの過ちがあってもそれを捧げる祭司が命を失うほどの恐ろしいものでした。
しかし、2千年前イエス様がこの世に来られ自分の体を持って一回の生きた
捧げものによりそのすべての血による捧げものを終わらせたのです。

今は人々は神様に捧げる動物を持ってくるのではなくイエス様の救いに感謝する喜びと
感動を持って礼拝に来ます。
日々の生活の中で必要なすべての良いものを与えてくださった神様に
罪から救われた喜びと感謝をささげるのが礼拝なのです。

詩編103篇2節にはこのように書かれています。
「わが魂よ、主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」
詩編の著者は主の良くしてくださったことを何一つ忘れるなと言っています。
悪人さえも恵みの雨を降らす神様は私たちに
すべての良いもので満たしてくださっています。

健康を守ってくださるから私たちは今日も生きて
自分の思いのままの生活をすることが出来ます。
朝、目を覚ました時今日の命の時間を私たちに与えてくださった神様に
感謝しなければなりません。

一秒後のことも知らない私たちを神様は眠ることもなくまどろむこともなく
守っていると聖書あは書いています。
すべての良いものは神様から与えられています。
そして、一番大事なことは罪により死ぬべき私たちを
永遠の滅びから救ってくださったのです。

返せない莫大な借金をある人が代わりに返してくれたお蔭で命が助かったとしましょう。
普通の人なら命の恩人にどれほど感謝するでしょうか。
そして、本当に感謝の気持ちがあるならそれは態度で現れるのです。
その命の恩人にもし会うことが出来たとき人は果たしてほかのことに夢中になり
命の恩人を疎かにするでしょうか。

第一サムエル記16章7節にはこのように書かれています。
「しかし、主はサムエルに仰せられた。彼の容貌や背の高さを見てはならない。
私は彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。
人はうわべを見るが種は心を見る。」
この箇所はサムエルという預言者が神様の命令に従いイスラエルの王になる人を
選びにベツレヘムという町を訪れたときの話です。

長い間王のいない生活をしていたイスラエルの民は
自分の上で立って治めてくれる王を求めました。
そして、神様の導きでサムエルはエッサイの息子たちに会います。
8人もの息子の中でサムエルは自分の目で判断してこの人が王ではないかと決めつけます。
そんな彼に神様は人はうわべを見るが主である神様は心を見ると語りました。

私たちは相手の心が見えません。それで目に見える人々の服装や表情
そして言葉に惑わされます。
しかし、すべてを造り知っておられる神様は何よりもその人の心を重んじるのです。

ここで私たちは自分たちに問いかけてみたいのです。
私は今日果たして真心を持って礼拝に臨んでいるのかと。
どんなに立派な服装で滑らかな言葉で祈り笑みを持って礼拝の場で座っていても
心が神様に向けられてないとき、その礼拝は神様に喜ばれる受け入れられる
礼拝にはなりません。
ただ形だけの形式で習慣的な宗教行為にすぎません。

礼拝を軽んじている多くの人々の態度は神様、いいえ
周りで見ている私たちまで不愉快にさせるのです。
心の伴っていない礼拝、人を意識して行う献金、いつまでも罪の中で
留まっている生活、そのようなすべてを改めない限り私たちが捧げる礼拝は
絶対に神様によろこばれません。

私たちを取り巻く環境は著しくまた激しく変化しています。
そして、その変化はますます人々を忙しくし罪への生活に誘惑しています。
今世の中は不法が蔓延り人々から愛が冷めている時代です。

約2千年前バプテスマのヨハネは言いました。
「悔い改めなさい、天の御国が近づいたから」
そして、イエス様も同じく人々に語ったのです。
私たちは確実に終わりの時、主の再臨の時をまじかに控えていない。

私たちは果たしてこの2千年前の切なる訴えに耳を傾けているでしょうか。
大いなる艱難の中で私たちの信仰を試される時がますます迫ってきています。
自由に伝道できる日が自由に教会で礼拝をささげられる日がそんなに長く
許されてないかもしれません。

私たちが捧げる今日の礼拝がもしかして最後の礼拝になるかもしれません。
その時私たちは何より大事な神様に集中しないでしょうか。
私たちは明日のことはわかりません。
確実に私たちが持っている時間は今のこの時間です。
その大事な時間を本当に真心を持って神様に礼拝を捧げていますか。

ヨハネの福音書4章23節ではこのように書かれています。
「しかし、真の礼拝者たちが霊と誠によって父を礼拝するときが来ます。
今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」
どうか、私たちが神様が探し求めている真の礼拝者であることを心から望みます。
  

Posted by 青い鳥 at 09:12Comments(0)説教

2013年08月27日

案山子の歌を聴きながら

案山子の歌を聴きながら
久しく振った雨で焼けていた草や木が少しは元気を取り戻しているようです。
ベランダの窓から見える電線の上には烏が一羽とまっています。
どんよりした空には灰色の雲が流れています。

テレビでは東北へのメッセージという題名で長崎で開かれて
さだまさしさんのコンサートの様子が流れています。
日本に来てなれない環境で寂しい思いをしていた時とても心に響く歌に出会いました。
さだまさしの案山子という曲です。

都会に出た子を心配している母の様子や愛が目に浮かぶその歌詞は
あまりにも自分の事と重なっていて涙を誘いました。
元気でいるか寂しかないか友たち出来たか、お金はあるか
手紙が無理なら電話でもいい、お前の笑顔を待ちわびるおふくろに聞かせくれ
都会に出た妹に伝えた内容の歌詞だという事を本で知りました。

あまりにもさだまさしの曲が好きでCDショップで初めてCDを買いました。
収録されたほかの曲でも人生の色々な試練や苦難を生きた人への愛が伝わってきて
とても好きになりました。
無縁坂やコスモスや転宅など飽きずに何度も歌を聴きました。
カラオケに行くたび挑戦もしましたがなかなか上手に歌えずにいます。

国や言語、文化とは別にお母さんという存在はいつまで
自分の子供の幸せを祈り心配するのですね。
今でも電話口で聞こえる母の声はいつも元気にしているか、金はあるか
大変だったら帰ってきてという事です。
年老いた母をいつまでも安心させてない私の人生も罪深いものだとつくづく思います。

迷いと葛藤の日々の中で季節はどんどん秋に向かって走っています。
生きている中では常に問題が発生し選択の道で迷ったりします。
日曜日の礼拝の後暗い表情でつぶやく私に宣教師は言いました。
”主に委ねなさい。”

これからの私の人生はまた日本の生活はどうなるのか見当もつきません。
しかし、いくら悩んでも答えは出ないのですべてを神様に委ねていきるしかありません。
私の笑顔を私の幸せを願い祈り続けている母のためにも
祝福された人生を歩む必要があるので神様の恵みを求めています。
  

Posted by 青い鳥 at 07:28Comments(0)

2013年08月26日

本ー塩狩峠

本ー塩狩峠
日本の作家の中で私が今まで一番多く読んでいる本の著者は三浦綾子です。
氷点という有名な小説や道ありきなどクリスチャンの信仰が知らぬ間に伝わってくる
数々の本の内容はとても感動的です。
原作で読んだ本は少なくほとんど韓国語で翻訳された本でした。

クリスチャン人口の多い韓国で結構人気があり本の売れ行きも良かったようです。
特に道ありきは三浦綾子とその人柄がよく伝わるとても素敵な本です。
今回は前から題名は聞いていた塩狩峠という実際の話を小説にした本を読みました。

脱線して勾配のきつい峠を落ちていく列車を止めるために自分の命を犠牲にした
一人の鉄道会社の職員の話はとても心の痛みました。
明治時代を生きた一人の若者の人生と最後はクリスチャンとして誇らしい人生でした。

塩狩峠の本を読みながら記憶の中で忘れていた思い出がよみがえりました。
大惨事になる恐れがある煙を出す車を命の危険性を感じながら
ほかの人々のために行動したバス運転手がいます。

田舎に引っ越しして数か月を過ごした時の出来ことです。
村の人々と観光バスを借りて日帰りの旅行に出かけました。
一日の楽しい観光が終わり家に帰る観光バスの中でした。

急にバスの中の人々が騒ぎ出したから私も外を覗いてみました。
すると道路の真ん中に煙を出して止まってしまった乗用車が見えました。
怖くなったのかその車を運転していた人は何処へ逃げ出したか見あたりません。
道の真ん中に置き去りにされた車からはむくむくと煙が立ち上ります。
周囲が煙で見えないほどでした。
しかし、その風景を見たほかの車のドライバたちは車を走らせて
その場を逃げるように去っていくだけでした。

驚くことに私と村の人々を乗せた観光バスの運転手がバスを止めたのです。
そして煙のする車に近づきました。
いつ爆発するかもしれないと心配の声が上がり早くバスを走らせなさいと
抗議を受けながらもバスの運転手は煙のする車の処置にあたりました。

それを見ていた人が何人か協力して車道から離れたところに
車を移動して物事が解決してからやっとバスは帰途につきました。
その運転手の行動を見て自分たちの命惜しさに他の車の運転手たちのように
逃げ出そうとした自分たちが恥ずかしく思いました。

同じく死の恐怖に怯えながら自分の命を守るために必死になっている人々とは違い
自分の出来る最善を尽くし命まで捧げた一人の若者の話は実話である分
もっと読んでいて涙が出ました。

彼は形式だけで終わるクリスチャンではなく生活のなかで
実際にイエスキリストに似たものとして生きていたのですね。
一人の凡人に過ぎない私にはいくら背伸びしても絶対届かないレベルの話です。
しかし、イエス様はクリスチャンたちにそのような人生を求めているので、、、
  

Posted by 青い鳥 at 08:17Comments(0)

2013年08月24日

映画ー君が躍る夏

映画ー君が躍る夏
お盆期間中に土佐のよさこい祭りを主題にした映画を見ました。
君が躍る、夏という映画です。
カメラマン志望の若者とデザイナーになりたがった少女の愛と夢
そして小児癌にかかった幼い妹の話がとても感動的でした。

シャッター街という新造語が定着するほど日本の地方産業は
長い不景気の中で苦しい時期を過ごしています。
昔なじみの商店街のシャッターが下りたまま活気をなくした地方の町は
ますます人の気配のなくなり寂しくさびれていきます。

お兄ちゃんの花火などいくつかの映画を見ると感じたことですが
病人を登場した感動的な内容の映画が多く観光促進のための
なんだか地域おこしの念願を込めて作っているような気さえします。

最近話題らしいあまちゃんでも地もとへ帰ろうとキャッチコピーがよく出ます。
しかし、就職の問題や結婚相手または刺激を求めて田舎、地方を離れた人々は
なかなか戻ることが出来ないと思います。
いくらマスコミで騒いでも実際に都会は地方からの人々によって
支えられているかもしれません。

夢を追って都会に出た一人の若者が自分の夢を実現するために都会に出ます。
しかし、結局その夢に近づく切っ掛けを作ってくれたのは都会の生活の中ではなく
日々自分のことに熱心に生きる故郷の人々の姿でした。
しっかり根を下ろして自分の日々の生活に一生懸命に生きる姿のなかに
その夢の種は隠されていたのです。

大事なものは何かという問いの中で一人の少女と交わした約束を守るために
自分の夢を後回しする主人公の選択はだいぶ勇気が要るものだったでしょう。
5年以上生き残ることが難しいと言われた難病の小児癌
そして、最後になるかもしれない夏に少女は消えゆく命を振り絞って
よさこいの踊りに挑戦します。

いつ見てもわくわくする踊りと聞いているだけでも興奮させる太鼓の音、
そして踊りチームの前で大きく重たそうな旗を振る二人の若者の姿は迫力がありました。
太古の生命の源泉に触れそうな太鼓の音にいつも憧れます。
力強い振り付けも節度ある踊りなど結構楽しい映画でした。
  

Posted by 青い鳥 at 08:04Comments(0)

2013年08月23日

説教ー聖書について

説教ー聖書について
宣教師が用事で教会を留守にすることになりました。
その留守の間に礼拝のことや食事のことを任せられました。
それでまた説教を準備するための悩みの日々が始まっています。

神学校の時でも2年生から説教を語りました。
朝の礼拝には15分、伝道集会では30分の説教でした。
説教の当番になる度、記憶の奥底にあった例話を取り出して原稿を書きました。
15分、30分の説教時間に合わせる為にタイマで何度も測り確認したりしました。

聖書を深く掘り下げる説教がなかなか出来なかった私はほとんど
例話で時間を稼いでいたのです。
しかし、今はその例話もネタが切れたので今回からは一つずづ
主題を決めて勉強する形で進めていきます。

今日の主題は聖書についてです。
私たちが今使っている聖書は日本語で書かれています。
そのため、私たちはとても楽に聖書を読むことが出来ます。
しかし、昔この聖書は一般の人々が手に取って読めるほどの本ではありませんでした。

聖職者と呼ばれる一部の人々が手にすることのできるとても近寄りかたい書物でした。
そのような聖書が宗教改革や印刷革命を経て国々の言語で翻訳され
今の私たちに伝わっているのです。

聖書は大きく分けて旧約聖書という部分と新約聖書に成り立っています。
ヘブライ語で書かれた旧約聖書には創世記からマラキ書までです。
そしてギリシャ語で書かれた新約聖書にはマタイによる福音書から
黙示録が収められています。

聖書は千年以上の期間をかけて作られました。
旧約聖書39巻と新約聖書27巻はすべて神の霊感を受けた預言者と呼ばれた人々が
書いた書物の集まりです。

第二テモテ3章16節にはこのように書かれています。
「聖書はすべて神の霊感によるもので教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」

千年以上という長い年月の中でそれぞれ違う人々によって書かれたのが聖書です。
その著者たちもいろいろな職業の人々で成り立っています。
下は無学な漁師から上は王に至るまで年や育ち、学歴も違う人々によって書かれました。
しかし、その中の思いと伝える内容は驚くほど一致しているのです。

それでは聖なる本の意味の聖書にはどんな内容が書かれているでしょうか。
それはこの世の始まりからこの世の終わりまでのことが書かれています。
この世は誰によってどのように作られたのでしょうか。
そしてこの世はどのように終わるのでしょうか。
その答えを私たちは聖書の中で見つけることが出来ます。

聖書には私たち人間が誰によって造られどのように生きるべきか
そしてどこに行くのかについて詳しく書かれています。
私たちがこの世に生まれて目にするすべてのもの太陽や月や星、
山や川、海、動物や植物、そして人間、地球この宇宙に至るまで
この世を造った方がいます。

その方こそ聖書が伝えている神様です。
それでは創世記1章1節から2章4節間の前半までをお読みします。
ーーーー創世記1章1節から2章4節前半ーーーーー

神様は茫漠として何もない地から言葉によってすべてのものを作りました。
神の仰せによって光が作られました。
そして海や陸、動物や植物などそして神様の形として私たち人間も造られたのです。
この様にこの世のすべては神様によって造られました。

しかし、学校では進化論を学生たちに教えています。
神様の存在を認めずすべてのもの、人間までが偶然の産物で出来て
進化したと教えているのです。

なぜ人類はこのように間違った教えを正しい真理として受け入れて
生活するようになったのでしょうか。
それこそ、私たちの人類の先祖である二人の人間の罪から始まったのです。
私たち一人一人の親をさかのぼると最後に二人の先祖アダムとエバにたどり着きます。

創世記2章7節にはこのように書かれています。
「神である主はちりで人を形造りその鼻にいのちの息を吹き込まれた。
そこで人は生き物となった。」
人間の体はちりで造られました。
神の形として造られその鼻に神が命の息を吹き込まれた瞬間生き物になったのです。
私たち人間は生まれた瞬間から必ず死ぬ運命を背負っています。

昔から多くの人々が王や金持ちそしてこの世の支配者たちは永遠の命を探し求めました。
エジプトのピラミットや中国の皇帝まで歴史上の中で
永遠の命に対する執着を見ることが出来ます。

あんなにも求めても得られなかった永遠の命、しかし私たち人間はもともと
永遠に生きる存在として造られていたのです。
その祝福された存在の人間が神様のただ一つの命令に背いた瞬間
この世のすべてが呪われるようになったのです。

それでは創世記の2章16節から17節を読んでみましょう。
「神である主は人に命じて仰せられた。
あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時
あなたは必ず死ぬ。」
人類の先祖であるアダムとエバが住んでいたエデンの園には多くの見るからに好ましく
食べるのによいすべての木がありました。
そのすべての木を二人は自由に食べることが出来ました。
しかし、一つだけ善悪の知識の木からは取って食べることを神様は禁じたのです。

けれども、二人が蛇として近寄ってきた堕落したサタンの誘惑に負けて
神様の命令に背きました。
それから人類は罪の奴隷になりサタンの支配下で苦しみ
神から離れて死を味わう存在になってしまったのです。

今の私たちは神様の存在を感じることもその声を聴くことも
その姿を見ることもできません。
しかし、もともと私たちは神様とおしゃべりができ親しく接することが出来る存在でした。
創世記3章8節にはこのように書かれています。
「そよ風が吹くごろ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。
それで人とその妻は神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」

このように神の命令に背く罪を犯した時から私たちは神の存在から離れ
神を知らず罪の中で生きるようになったのです。
自分が造った人間が犯した罪による死を神様hとても悲しまれました。
そして、その死からの救いの方法を人々に伝えたのがこの聖書です。

旧約聖書には人々を罪による死から救うために救い主が来られるという
約束について書かれています。
そして、新約聖書にはこの世に来られた救い主について書かれています。

ローマ人への手紙6章23節にはこのように書かれています。
「死からくる報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は私たち主キリストイエスにある
永遠の命です。」
私たちは罪を犯した人々の血を受けづく罪びとたちです。
そして、聖書はそんな私たちは絶対にその罪からくる死から
逃れることが出来ないと言っています。
そのために神様は私たちを救うために救い主を送るとの約束をしてくださったのです。
そして、ついに来られた救い主こそイエスキリストです。
約2千年前にイスラエルのベツレヘムという小さな町で生まれ33歳の若さで
十字架で死を迎えたイエスキリストこそ私たちを罪から解放してくださった
救い主だったのです。

ヨハネの福音書15章19節にはこのように書かれいます。
「人がその友のために命を捨てるというこれよりも大きな愛は誰も持っていません。
これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
自分の命を捨てるほどの愛はなかなかありません。
しかし、被造物であり罪びとである私たちのために神様は身代わりになって
罪の代価を払ったのです。

第一コリント15章22節にはこのように書かれています。
「すなわちアダムによってすべての人が死んでいるように
キリストによってすべての人が生かされるからです。」
人類の先祖であるアダムの罪のゆえにその子孫である私たちすべての人が
死ぬ運命でした。しかし、イエスキリストの十字架、そして復活により
私たちすべてが生きるようになったのです。

私たちは罪から解放されました。死から解放されました。
神であるイエスキリストが自分の体をもって罪の代価を払ってくださったからです。
しかし、今でもその神様の愛を知らずまたそれを信じない罪びとのままに
生きている人たちがいます。
第一コリント6章20節にはこのように書かれています。
「あなた方は代価を払って買い取られたのです。
ですから、自分の体を持って神の栄光を現しなさい。」

神様は聖書を通して私たちに切に呼び掛けています。
愛する子供たちよ、あなたの罪の代価を私が払ったのだ。
あなたは自由になったのだ。そのことを信じなさい。
これからは罪びとの生活から離れて私の所に立ち返れ。
あなたの体をもって私の栄光を現しなさい。

2千年前に十字架に掛かったイエスキリストはまたこの世に来られます。
今度は救い主ではなく裁き主として来られます。
聖書の中で幾度も記録されたように神であるイエスキリストを信じ
罪から離れて生きること神様は切に望んでいます。

日々ニュースを見るたび、この世にだんだん近づく終わりの時を感じます。
神様に立ち返る時間は私たちに許された時間はますます短くなっています。
どうか、イエスキリストを信じて救われますように。

それでは,エゼキエル書18章23節、31節、32節を読んで終わります。
「私は悪者の死を喜ぶだろうかー神である主の御告げー彼がその態度を
悔い改めて生きることを喜ばないだろうか。」
「あなた方の犯したすべての背きの罪をあなた方の中から放り出せ。
こうして新しい心と新しい霊をえよ。
イスラエルの家よ、なぜあなた方は死のうとするのか。」
「私はだれが死ぬのを喜ばないからだー神である主の御告げー
だから悔い改めて、生きよ。」
  

Posted by 青い鳥 at 07:37Comments(0)説教

2013年08月22日

ドラマ家族ー妻の不在と夫の存在

ドラマ家族ー妻の不在と夫の存在
愛し合って夫婦になった二人の男女がいつの間にか出来た
厚い壁にぶつかる瞬間があります。
愛で築いた家族という絆がもろく崩される瞬間です。

忙しさを理由におろそかにした家族との関係は
きずいた瞬間には修復不可能になっていたりします。
愛する家族を扶養するためと一生懸命になっているお父さん、
しかし、通わない心に寂しさが積もるお母さんがいます。

幼稚園生の息子のピアノ発表会のことで結局離婚を宣言して家を出る妻と
納得できないと言い張り妻の気持ちを探ろうとしない夫がいます。
しかし、預かった息子の子育てを通して妻のことを少しずつ理解し
心の壁を縮めていくドラマは刺激に慣れている人にはあまりにも
退屈に感じたかもしれません。

しかし、夫婦の歩みや親子との関係など色々と考えさせられるいいドラマでした。
泥沼化した離婚騒動の後、生きることへの空しさまで感じていた時期を過ごしました。
そんな私にはお互いを思いやる気持ちが残っているドラマの中の主人公の
話はまだ救いがありました。

愛し合った二人が裏切りと嘘と憎みあいで別れることは
どれほど周りの人を特に子供たちを傷つけてしまうことか少しは感じることが出来ました。
愛するお父さんと愛するお母さんと平安に暮らす普通の生活
しかし、ある人たちにはそれはどんなに望んでも二度と叶えることのできない
ことになっています。

一緒に過ごした長い年月が美しい思い出を心の中に刻んでいた瞬間が
癒すことのない悪夢のように終わっていく瞬間を今でもはっきり覚えています。
平凡なことがどれほど難しいことかを肌に感じる瞬間です。

誰が代わることも埋めることのできないお母さんとお父さんという役目
しかし、自分たちの都合でそれを諦めた大人たち
そして、それを受け入れることしかできな子供たち
今も何処かではそのような夫婦が家族や家庭があるでしょう。
どうか、彼らの心に壊れた家族や家庭が初めの愛を取り戻し回復されますように。
  

Posted by 青い鳥 at 09:19Comments(0)

2013年08月21日

聖書から伝わる神様の心

聖書から伝わる神様の心
神様の助けがなければ聖書を正しく把握するのは難しいと言います。
文化や言語も違うイスラエルを舞台にして書かれている聖書の世界は
あまりにも理解できない不思議なことばかりです。
特に終わりの時を予言した預言書などは本当に謎だらけです。

私たちが生きている今の時代は推測できないほど変化に富んでいます。
世界的に発生している多くの想像できない自然災害は
キリストを知らない世の人たちも世の終わりなのかと不安を持って見守っています。

神の啓示を受けた人々は色々な方法で私たちに警告を与えています。
着々と迫ってくる危機を知りそれを知らない人々に伝える為に
彼らは必死になっています。
時には声も荒々しく時には涙を持って神様の声を伝えます。

しかし、その声に反応する人々は稀で少ないのがもどかしい限りです。
聖書にはこの世のすべでの生き物を滅ぼした恐ろしい大洪水の話が書かれています。
地上に蔓延る罪に神様に背を向けて自分勝手に生きる人間たちに絶望した裁きでした。
大洪水が迫ってきたその日まで人々はいつものような日を迎えました。
何の変りのない平凡な一日を期待して何も知らず過ごしました。
しかし、それは一瞬にして悪夢に変わったのです。

長い寿命を持っていた当時の人々は神に祝福されたように
この地上に増え広がりました。
しかし、神様の裁きが下された日救われた人々はわずか8人しかいませんでした。

大洪水から逃れる為に神様から警告を受けてノアとその家族は箱舟を造る作業を始めました。
ほぼ100年近くの年月を費やしたとされる箱舟が出来上がるまで
神の裁きが下ることを信じたノアの家族は自分の家族や兄弟親戚や友達に
どれほど死の危険を訴えたでしょうか。

もしかして箱舟に乗る寸前まで人々に声をかけたかもしれません。
しかし、誰一人その切なる声に耳を貸そうとはしませんでした。
降り続く雨の中で沈んでいく地上でだんだん迫ってくる死の恐怖の中で
残された彼らはどんな思いでその死を迎えたでしょうか。

そこには命の道を疎かにした自分への攻めや後悔または聞く耳を持たず
あまりにも傲慢で愚かだった自分に対する絶望だったかもしれません。
しかし、彼らがどんなに後悔しても遅すぎたのです。
救われるチャンスはいくらでもありました。けれども彼らは大事な命に繋がる
そのチャンスを無駄にしてしまったのです。

過去の観測記録を更新したという桜島の噴火の話を韓国の母から聞きました。
火山灰で町が覆われた恐怖の自然災害の中で聞こえる神様の警告を
日本の皆さんは聞いていますか。
まだまだ救われるチャンスは残されています。
まだノアの箱舟の戸は閉まっていません。
どうか、神様の所に立ち返り救い主のイエスキリストを信じ救われますように。
  

Posted by 青い鳥 at 08:36Comments(0)