2016年10月25日

ドラマー曲げられない女

ドラマー曲げられない女
最近は司法試験のハードルもだいぶ下がっているように思われますが
それでも弁護士や判事、検察官になるための道はそんなに容易ではありません。

今は様子がに変わっているかわかりませんが
かつて韓国では、司法試験を目指す若者がお寺にこもって試験勉強をすることが結構ありました。
その中には何年も落ち続けた挙句、試験勉強に使っていた教材を全部燃やして
自殺した人も結構いたようです。
従兄も法学大学で法律を専攻して司法試験に挑戦しました。
しかし、10年近くいい結果が得られず今は司法書士として事務所を開いています。

そうなった過程を詳しく知らないのですが
試験に落ち続けて時間だけが過ぎていき
とうとう諦めた時には、想像できない悩みと葛藤があったでしょう。

菅野美穂が主役のドラマ”曲げられない女”を見ました。
無愛想な彼女の現実に妥協しない、自分の信念を曲げない
生き方に深く共感しました。

10年間落ち続けてもめげずにがんばり続ける彼女の姿がまぶしく見えました。
毎日決めた分量の学習をこなして行く彼女を見て難しい目標を達成するために
どれほどの忍耐と努力が必要なのかを身にしみてわかりました。

知らない人の赤ちゃんを救うために自分の命を犠牲にしたお父さん、
教師として死ぬ日まで愛を持って学生たちを教えたお母さん、
尊敬できる両親の生き方を見て育った彼女の人生は
現実に妥協することを常に要求する周りの誘惑やいやみなどにも屈しません。

最近は口うるさく忠告する親父や近所の世話好きなおばさんも見えなくなりました。
そうしたおせっかいを受け入れない人々にも問題がありますがそれぐらい周りの人々に対する関心が
薄れているのかもしれません。

面倒な事に巻き込まれたくないので目を瞑る、
自分に不利な結果になるかもしれないのでしらない振りする時代です。
曲げられない女はそんな人々の出現を夢見たドラマ作家の夢物語なのかもしれません。
一人また一人そのような人が増えていくとき
もしかしてこの世はもっと幸せなところになるかもしれません。

聖書には天から降ってきた硫黄の火で一瞬にして滅び去った都市の話が書かれています。
ソドムとゴモラの名前で知られるその二つの都市は多くの悪を行った彼らの罪に原因があるけれど
もっと悲しい現実は神様の裁きからその都市を救える10人の正しい人がいなかったからなのです。
数万人の人々が一瞬にして滅び去っていきました。(創世記18章-19章)

悪に染まっていなかった10人の正しい人、どんな誘惑や不利な状況でも不義に妥協しない
正しい生き方をする人が今の時代にも必要なのかもしれません。
道徳の基準がますます低くなっていく世の中でも高い水準を自ら守っていく行き方が求められるのです。

  

Posted by 青い鳥 at 19:17Comments(0)

2016年10月22日

神様との握手


神様との握手
人は生きているうちに出会う3つの選択により莫大な影響を受けると思います。
それは人生を生きる中で進むべき方向を決める判断基準になる価値観と
日々の生活の中で出会い関係を結び交わる人、そして、最後に自分がかかわる仕事です。

赤ちゃんとして生まれこの世を去るまで私たちはどれほどの数の人々に出会えるのでしょう。
お母さん、お父さん、兄弟という血のつながりからまったくの他人に至るまで
それは想像できないほどの数に上ると思います。
その中では顔を覚えられずあっという間に過ぎ去った人もいる反面
人生が変わるほどの忘れられない出会いもあるでしょう。

今日はらい病患者との出会いから神様を体験した一人の宣教師の話をしたいと思います。
彼は今中国でらい病患者の世話をしながらイエスキリストを伝える働きをしています。
彼の証の中で一部の内容を整理して載せます。

らい病患者になってもその事によってイエス様に出会えた事に感謝して生きている人々がいます。
どうか、そんな艱難に会う前にイエス様に出会うことが出来ますように。
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私がドイツで留学して神学の学びをしていたときの事です。
ある有名なドイツ人教授の授業に出席していました。
とても人気がある人で教室には他の科の人や学部の人、
そして卒業生たちまで1、500人あまりの学生たちがいました。

しばらくマルコの福音書を講義していた教授が急に立ち止りました。
そして、革の表紙の聖書を持ち上げて学生たちにこう質問したのです。
”皆さんの中でこの聖書を本当に神様の言葉として信じている人がいますか。”
学生たちの中には卒業を待っている人や牧師の国家試験に合格した人もいましたが
誰一人その質問に手を上げようとする人はいませんでした。
科隅で講義を聞いていた私が手を上げました。

肌や顔立ちの違う私をじっと見ていた教授がこう質問しました。
”君はどこから来たか?”
多分ドイツ人には見えなかったのでしょう。
”私は韓国から来ました。”
そのように答える私に教授は言い続けました。
”韓国はまだシャーマニズムや原始宗教に浸っているから
無条件に信じているようだけどここで勉強してたらこれが何もないということを悟るだろう。
これは皮の表紙2枚以外には何の値打ちもない。”

そんな教授の言葉に誰も異議を称える人はいませんでした。
教室の中に大勢参加した学生たちはみんな沈黙を守りました。
講義が終わり隣部屋のドイツ人学生に確認しました。
”私のドイツ語が未熟で聞き取れなかったかもしれない。
あの教授はこのように話し、私はこのように答えたつもりだけど合っているか”
しばらく沈黙を守り私の顔をじっと見ていたドイツ人学生はこのように問い返しました。

”君は本当に聖書を神様の言葉として信じているか”
びっくりした私は彼に聞きました。
”君は信じないのか?”
私の質問に彼は躊躇しないで答えました。
”私は信じない”

小さいときから神学を勉強することは神様の招待に対すつ
真剣な答えとして進む道だと信じていた私は驚いてまた聞きました。
”君はなぜ神学を勉強しているのか”
彼はこう答えたのです。
”いい職業だからだよ。”

ドイツでは一番優秀なエリートが勉強する学問が神学で
牧師は高級公務員のいい暮らしが保障されるのでした。
それで、彼らは信仰ではなくいい仕事を得る手段として神学を勉強していたのです。

5,60年代、社会主義神学が盛んだったドイツのその風潮の中で私は真剣に悩みました。
”私が神学を学ぶのは神様の言葉をもっと深く学びよいメッセージを語るために
ドイツにきたのにそれでは私は人間の言葉を人々に語るべきだろうか。”
そんな日々の中またその教授とあるセミナでぶつかる事になりました。

”君は神の事を信じ聖書の言葉を神の言葉として信じると主張するけれど
だったら神の存在が確実である証明してみろ。
君は神に出会ったことがあるか。神の顔はどうなっているか。
黒人だったか、白人か、あるいは君のように黄色人か?
神に会ったことがあるなら握手でも交わしたのだろう。
それで神の手は熱かったか、冷たかったか?”
そんな教授の辛らつな問いに私は何も答えられませんでした。
”ほら、結局君は意地になって信じているだけだろう。”

それから私は学業を終え韓国に帰国して偶然導かれた教会がライ病患者の集う教会でした。
牧師としてはじめて講壇にたった日のことを忘れることができません。
一番前に座っている老人の顔には5つの穴以外に何もありませんでした。
あまりにも衝撃的でその時、メッセージで何を語ったのかいまだに覚えられません。
説教が終わり教会の知らせの時”初めてですので握手でも交わしましょう”と伝えました。

礼拝が終わって見ると誰一人残っていません。
”よかった、みんな帰ったんだろう。”と安心して教会の扉を開くと
教会の信者さんたちが行列をなして待っていました。

また穴だけ残っている年寄りが手を差し出しました。
握手をしようと思い、出された手を見たのですがそこには手首しかありません。
膿の塊が沢山ついているその手の何処を握ったら言いか迷いましたが
とにかく手首を握りました。

それから、2番目のおばあさんのときでした。
手の半分が残っている彼女の手を握りました。
すると彼女は私の手の上に自分の左手を乗せて何度もなでるのでした。
今にも膿が敗れて汚い液体が流れ落ちそうで手を抜こうとした私に
彼女は言いました。
”先生、私がらい病にかかったのは18歳です。
満60年間この病気で生きているうちに始めて元気な人の手に触れます。
あまりにもうれしいからです。”

その瞬間胸が熱くなりました。
”あ、この手がもしかしてイエス様の手かもしれない。
私たちの汚い罪のゆえに十字架にかかったイエス様
むちに打たれたイエス様は指が折れていたかもしれない、
そこに膿が出来ていたかもしれない。
イエス様の手を握っているのに怖がる必要はない”

10数年を探しても出会えなかったイエス様を
そのライ病患者のおばあさんを通して出会うことが出来たのです。

彼女のあまりにも悲しい運命に聞きました。
”おばあさんは自分の人生があまりにも理不尽だと思いませんか。
神様を恨んでませんか。普通なら結婚して孫を抱いてもいい年なのに。”
その問いに彼女はこう答えたのです。
”私はらい病になったからイエス様に会いました。
イエス様を信じ天国に行けるので感謝します。
可哀想なのは私の親と兄弟たちです。
彼らはイエス様も知らず地獄に行ったと思うと偲べないのです。。”

















  

Posted by 青い鳥 at 14:39Comments(0)

2016年10月03日

本当の成功


本当の成功
耐えられない暑さが続いていた今年の夏も和らぎ
朝,晩と結構涼しくなりました。
しかし、立て続けに来た台風の影響で蒸し暑さを凌ぐために
今も時々クーラーをつけたり扇風機を回しています。

早くも今年も9ヶ月が過ぎカレンダーは残り3枚になりました。
新しい1年が始まるたび昨日とあまり変わらない日を迎えるのけれも
なんだかワクワクしたり何かと計画を建てなければという感じになります。
しかし、9ヶ月が過ぎて振り返ってみると
例年と同じく変わらない日々になっています
自然の生き物たちは実りを準備している季節、
私は今年、どんな人生の実りを刈り取れるのだろうか。

家にいるとき、退屈しのぎによく利用するのがユーチューブの動画です。
好きな音楽を聞いたり色々な人の講演を聞くのが楽しいです。
ソウル大学の教授が語る幸福についての話を毎日のように聞きましたが
少し聞き飽きたのでチョンホスン詩人の話を聞きました。

1時間近くの間、彼が語る内容はとても共感できる部分が多く有益な時間でした。
特に印象に残る話はビル・ゲイツとウォーレン・バフェットのエピソードです。
世界で認められている二人の金持ちと大学生たちの討論会で
ある大学生が投げた質問は”成功とはなんですか?”でした。
そして、その質問に対する答えはあまりにも単純でまた深い内容でした。
”本当の成功とは一番親しい人に愛されることです。”

救い主としてこられたイエス様も自分の故郷では歓迎されなかったという
内容が聖書には書かれています。
大工の息子で小さいときから知っていて親しんでいた人が
ある日救い主として現れた時、それをすんなり受け入れることが難しかったでしょう。

表だけを見せられる人々から尊敬されたり愛されることは
ある意味、容易いことかもしれません。
しかし、24時間いつもそばにいてその人のすべての行動を見られる人に
特に家族や兄弟また夫婦の中で尊敬されたり愛されることは
そんなに簡単なことではありません。

社会的には成功を納めた人が家庭ではどんな関係を気づいているか
私たちは知りません。
私たちは表の顔や姿を見て判断しているだけで
裏の顔を知っている彼の周りの人間関係こそ
成功の判断基準になるのでしょう。

成功を納めた二人の話だからもっと重みが増す
その成功の基準に照らし合わせると私の状況は悲しい限りです。
人に自慢できるほどの成果もなく一番親しい人からも愛されない
今の状態を振り返りながらどこから私の人生の歯車は
狂ってしまったのだろうかと反省しています。
結局成熟できない人間性が結んだ実なのでしょう。
父よ、こんな私を哀れんでください!!!
  

Posted by 青い鳥 at 14:07Comments(0)

2016年10月01日

ある知識人に送った手紙

はじめてお便りを差し上げます。
私は李長老の知り合いです。 李長老から先生は
知識が豊富で優れた記憶力の持ち主でいらっしゃると聞きました。

私は 李長老と同じくクリスチャンです。
今日は、知識や経験などとうてい及ぶことのできない先生に福音について
ぜひ聞いていただきたい事があり手紙を書きます。

私はキリスト教についても日本語についても至らないところが沢山ありますが
お許し頂けますでしようか。
私が日本語を正式に学んだのは6カ月だけです。
間違いがあったら教えてくださりまた大目に見てくだされば幸いです。

先生はご高齢の方だと聞いていますが
死後の世界をどのようにお考えでしょうか?

生まれる時は順番がありますが死はそうではありません。
年老いたおじいさんより若い孫が病気や事故で亡くなつたりします。
死は命を持っている全ての生き物に訪れます。
そして人間には死後、どのような事が待っているでしようか?
それは天国と地獄です。

信仰を持っていない人もよく口にするのが天国という言葉です。
死んだら天国に行くと軽々しく言います。
実際に行った事は無いけれど誰一人地獄に行きたいと望む人はいないでしよう。
そんなにも行きたがる天国に果たして、全ての人が行けるのでしょうか? 

天国にはこの世を造つた神様が居られます。
そして、そこには涙もなく、悲しみや病気、死のない永遠に平和と幸せが続く世界だと聞いています。
そんな素晴らしい世界に私達は入る事ができます。
さて、どんな人が入れるのでしようか? それこそ、罪のない人です。
罪の問題が解決出来てない人は決して入ることが出来ません。

人間の世界でも罪を犯した人は罰を受けます。
もし罪びとが何の罰もうけないでのうのうと暮らしていたら人々は怒りを感じるでしよう。
この世では罪を犯した人間だけが裁きを受け罰を受けるのですが死後の世界では全ての人が裁かれます。
人はみないつか神様の前に立つ時、罪のない清い人間として認められるでしようか?
地上に生まれてから死ぬ瞬間まで自分は正しく生き抜いたと言えるでしようか?

この世の法律は行動に移された犯罪にたいして裁きます。
しかし、神様は私達が心の中に留めておいた悪い思いまでも罪として裁くのです。
生涯一度も嘘をついたこともない人、もしくは心の中で一回も罪を犯したことのない人がいるでしようか。
仮にそんな人がいたとしてもその人が神様を知らなければそれも罪になるのです。

この世でも罪を犯した人は罰を受けます。
それでは、あの世ではどうなるのでしようか。
罪人が受ける罰は永遠に終わらない苦しみです。それこそ地獄なのです。

人は絶対に罪の問題から逃れる事は出来ません。
全ての人は罪人であり罪の代価は死なのです。
それでその罪の問題を解決するためにイエス様がこの世に来られ人類の罪を背負い十字架に掛かりました。
イエス様が私達が受けるはずの罰を代わりに受けて死なれ3日後によみがえりました。
その事を信じ告白した瞬間から私達は罪のない清い人間として生まれ変わり永遠の命を得ます。
福音とは罪人として死ぬはずだつた私達が自分の罪を悔い改め、
イエス様の十字架のあがないを信じ受け入れる事で神様の子供になり、また永遠の命を得ることです。

今までの長い年月にどれ程の人々が先生にイエス様の事を伝えたでしよう。
李長老との出会いが最後のチャンスかもしれません。
とうか、イエス様を信じ永遠の命をえてください。
そして、一番大事なことはイエス様を信じる事は命が有る間だけです。
死はいつ私達を訪れるかわかりません。
魂が肉体を離れたら二度と救われるチャンスはありません。

この世の学問をいくら勉強して博士になり博学でも命を始め、
知識や健康また他の様々な物を与えてくださった創り主、神様を知らないのは愚かな事です。
謙遜な気持ちで神様を呼んでください。
心から神様に助けを求めてください。
イエス様は先生を罪から救うために死なれたのです。
その尊い犠牲と愛を感謝を持って受け取る事ができますように心から祈ります。
どうか、救いに預かることができますように。アーメン。

  

Posted by 青い鳥 at 10:46Comments(0)