2018年01月27日

説教ー神の愛、許す愛

説教ー神の愛、許す愛
こんばんは。金曜祈祷会に来られたみなさんを心から歓迎します。
私は数年前に神学校を卒業しました。
入学したときは聖書について全く知りませんでした。
毎日、授業のたび聖書箇所を探すのが大変でした。
神学校では聖書箇所をみんな声を揃えて読むようにしていたからです。

他の同級生や先輩たちがあまりにも素早く聖書箇所を見つけるので
何かいい方法はないか悩みました。
それで文房具屋に行って色とりどりの付箋を買ってきました。
創世記からヨハネの黙示録まで66巻のタイトルを付箋に書いて貼りました。
重ならないように貼るのも一仕事でした。

今は聖書箇所を見つけるのも少しはましになりました。
しかし、引用したいところがなかなか見つからなくて
もどかしい思いをしています。
卒業してからは説教を語る機会もなくなったので
久しぶりに皆さんの前で説教をするので緊張しています。

それでは今日の聖書箇所に移ります。
ルカの福音書6章20節から38節までをお読みします。
20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。
「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。
21 いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。
いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。
22 人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、
辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
23 その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。
24 しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。
25 いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。
いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。
26 みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、
にせ預言者たちに同じことをしたのです。
27 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。
あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。
28 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。
29 あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。
上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。
30 すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。
31 自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。
32 自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。
33 自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、
あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、
同じことをしています。
34 返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。
35 ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。
36 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。
37 さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

ルカの福音書6章には安息日に起きた2つの事件と12弟子の任命
そして、山上の垂訓という話が書かれています。
イエス様が語った幸いな人と哀れな人はこの世の基準とは全く正反対です。
この世に生きている私達は富んでいる人、食べ飽きている人、今笑っている人、
皆の人から褒められる人を幸いだと思います。
しかし、イエス様は今貧しくても今飢えていても今泣いていても人の子
つまりイエス様のために人々から憎まれ、除名され、辱められ名前が
悪しざまにけなされてもそれこそ幸いであると語りました。
そして、そんな試練を乗り越えて勝利したものへの報いについて語っています。

るかの福音書6章23節にはこう書かれています。
”その日には喜びなさい、
躍り上がって喜びなさい、
天ではあなた方の報いは大きいから。
彼らの父祖たちも預言者たちに同じことをしたのです。”

イエス様の弟子として生きることは容易いことではありません。
そこには様々な迫害や苦難もあります。
ときには命の危険さえもあります。
実際、イエス様の12弟子のうち10人が殉教しました。
また初代教会から今までイエスを信じたことで
どれほど大勢の人々が命を失ったでしょうか。

時には愛される家族や兄弟などの死の前でその悲劇をもたらした人への憎しみで
我を忘れてしまった人がいるのかもしれません。
そんな弱い私達をよく知っていたイエス様は12節にも渡る内容で
”あなたの敵を愛しなさい”と語りました。

しかし、天国でどれほど素晴らしい報いが私達を待っているとしても
イエス様を信じることで私達がこの世で被る様々な艱難や迫害の時
愛を持って生きるのは簡単ではありません。

もし、あなたに一人息子がいたとしましょう。
ある日、大事に育てたその独り子がいなくなりました。
数日後、その子は無残な姿で現れました。
お金欲しさに誘拐され殺されたのです。
あなたはその犯人をたやすく許せますか?
正直言って私がもしそのお母さんだったら許す自信がありません。

しかし、毎週捧げる礼拝の中で唱える主の祈りには
心を刺すような内容があります。
”我らに罪を犯す者を我らが許す如く我らの罪おも許し給え。”

主の祈りはイエス様が生きている時弟子たちに直接教えた祈りです。
どのように祈るべきかとイエス様に聞いた弟子たちに語られた内容です。
そこには神様を褒め称え、神様の国がこの地に訪れることを願い
日々の生活を守ってくれることを祈っています。

しかし、その内容に一つだけ条件付きの祈りが入っています。
我らの罪を許し給えとイエス様は言いませんでした。
我らに罪を犯す者を我らが許すごとくという
とても担いきれない文句を付け加えているのです。

許すことには軽いものからとてつもないほど重いものまであります。
”ゴメンね。”と謝って、”もういいよ。”と笑顔で済ますものもあれば
最後まで相手を許すことができず自分を破滅に追い込むほど
相手を許すことができないことさえあるのです。

マタイの福音書18章にはペテロがこの罪の許しについてイエス様に聞いています。
”主よ、兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで許すべきでしょうか、
七度まででしょうか”
そして、イエス様はこのように答えています。
”七度までなどとは私は言いません。七度を七十倍するまで”といいます。

それからイエス様は一つの例え話を言いました。
一万タラントの借りのあるしもべと百デナリの借りのあるしもべの話です。
返すことのできない莫大な借りを王様から許してもらったしもべが
自分が貸した少しの借りの仲間にたいして哀れみを施しませんでした。
そして、私達はまさに一万タラントの借りのあるしもべのように
払いきれない罪から神様の許しを得ています。
担いきれない罪の代価をイエス様の十字架の贖いで許されたのです。
そんな私達が同じ人間である人々のちっぽけな罪を許さないなら
神様はこのように怒るでしょう。
”私がお前を哀れんでやったようにお前も仲間を哀れんでやるべきではないか”

それではコリーテンブムの話で終わります。
ヒットラーの時代ガス室で600万人のユダヤ人が殺されたと聞いています。
その時、不思議なことにコリーテンブムは生き残りました。
彼女はユダヤ人で時計屋を経営していた父の四人の子供の一人で末っ子でした。
ユダヤ人への迫害がひどかった時、彼女の父親は子供部屋の裏にある
秘密の部屋にユダヤ人たちを隠しました。
クローゼットの小さい戸の裏に7人から8人ぐらいの人が
立ったままなら入れる空間がありました。
しかし、誰かの密告により彼女と彼女のお姉さんのベップ、
そして、84歳のお父さんは収容所に送られました。
年寄りのお父さんは間もなく死に、彼女のお姉さんも病にかかり
収容所で亡くなりました。

お姉さんの死から1週間後に彼女は解放されました。
しかし、彼女が解放された1週間の間に彼女と同じ年の女性たち
すべてがガス室で殺されたのです。
数年後彼女が再びその収容所を訪れたこと知ったことは
彼女は小さいな書類上のミスによって死を免れたのでした。

彼女はお父さんとお姉さんを殺し、死ぬほど自分を苦しめたドイツ人たちを
なかなか許せませんでした。
しかし、ある日、祈りの中で神様の声を聞きました。
罪責感で苦しめられているドイツ人に神様の許しを伝えるように言われたのです。
なかなか従えない気持ちで彼女はドイヅ全国を回りながら
神様の許しの愛を伝えました。
そして、多くのドイツ人たちが神様の愛によって生きる力を得ました。
彼女が行く講演会場にはいつも人々が彼女に握手を求めました。
ある日、講演が終わり握手を求めている人々をいたわりながら
歩いていた彼女の体はこわばりました。

人々の行列の中に彼女を死ぬほど苦しめた拷問官が握手を求めていたのです。
彼女は心のなかで”絶対あの人を許しません。”と思っていました。
しかし、”私はあなたのために死にました。
私があの人を許したのであなたも許しなさい。”と神様が言ったのです。
彼女は恐る恐る手を差し出しました。
その時、彼女の心に驚くほどの平安と喜びが湧き上がったのです。
自分自身どうしても許せなった憎むべきドイツ人の拷問官を
許すようにさせたのは神の愛でした。

彼女の心を平安に満たした神の愛についてご存じですか?
日本では毎年12月近くになると商店街やデパートの前に
華やかなツリーが飾られ楽しいクリスマスキャロルが流れます。
そして、クリスマスにはみんなケーキを買って食べたりプレゼントしたり
家族や恋人たちが楽しい時間を過ごします。

そのクリスマスこそ罪人である私達人間を救うために来られた
神様、イエス・キリストの誕生を祝う日なのです。
人々は生まれてから死ぬまで色々な罪を犯します。
法律で定められた罪だけではなく心で思って犯すあらゆる悪い思いさえも
神様の前では罪です。
神様の前で人間は一人として正しい人はいないのです。
すべての人は罪人です。そして、罪人である人間は
神様との交わりを持つことができません。
神様は聖い方だからです。

罪を犯した人は相手に許しを求める時、
そしてそれに対して相手が許した時和解が成立します。
罪人である人間と全く罪のない聖なる神様の関係を
回復させるために来られた方がイエス様です。
そして、私達の罪の代価をイエス様が担ってくださったのです。
そこに神様の愛があるのです。
そこに私達への許しがあるのです。

私たちに歯向かう敵を愛することは難しいです。
私達を憎む人に善を行うのはもっと難しいです。
私達を呪う人を祝福するのはいかがなものですか?
私達を侮辱する人のために祈れますか?
私達の片方のほうを打つ人に他のほうをも向けられますか?
ルカの福音書6章にはこれ以上にももっとたくさんの
イエス様の命令が書かれています。

自分の愛するお父さんとお姉さんを殺し、自分にも死ぬほどの苦しみを
与えたドイツ人を許せますか?
しかし、コリーテンブムは神様の声を聞き、従いました。
そして、彼女が許しを決めた瞬間、自分もその憎しみという感情から
解放されたのです。
それで神の愛、神の平安を得ることができたのです。

イエス様は私たちに平安を与えるためにこの世に来られました。
どうか、そのイエス様を心に受け入れ神様と和解できる私達でありますように。
  

Posted by 青い鳥 at 15:22Comments(0)説教

2018年01月23日

風の中の散歩

風の中の散歩
少し暖かくなっていた天気がまた冬に戻りました。
寒いので部屋の中で動きまわるのも億劫になっていましたが
去年の末から決めた集まりがあり渋々出掛けました。

帽子をかぶり、首にはしっかりとマフラをしました。
しかし、冷たい風が体のそこまで届くような天気です。
2回めの訪問ですが前とは違う路線の電車を利用することになりました。
20分に1台のローカル電車の中は客もまばらでがらがらです。

乗替に遅れて電車に乗り遅れそうになりましたが無事に搭乗できました。
最寄りの駅について電話をしようと思ったとき
携帯電話の連絡先に名前が登録されてないことを知り慌てました。

少し前に調子の悪いスマホを初期化したとき電話番号が綺麗に削除されたのです。
ネットに保存していた連絡先しか残されていません。
それで一人、二人結局3人の人に連絡をしてやっと
電話番号を知ることができました。

やっと連絡が取れると安心したのもつかの間、
駅からの道順を知るためにかけた電話機の中から聞こえる案内放送は
”現在使われておりません。”の繰り返しです。

1時間近く時間をかけ、また交通費まで使ったのにそのまま帰るのも忍びなく
始めてきたときの記憶を頼りに目的地を探す羽目になりました。
方向音痴の私が40分近く風の中を彷徨った末ついに
目当ての建物を探し当てました。
けれども、入り口の2つの門はしっかり鍵がかかっていて留守でした。

風が吹き、小雨の中を探せると信じ頑張って歩いた該もなく
いつ戻るか、また連絡が取れるかわからない相手を待つのもアホらしくなり
伝言のメモ用紙を残して結局帰ってきました。

帰りの電車は30分に1台の電車が少し前に出てばかりでした。
待つ時間が退屈で駅の中を探索したりしました。
やっと電車が到着して次の乗替の電車に乗るために駅に急ぎました。
改札口に急いでいるとき私が乗る電車がちょうど出発するところでした。
また20分を待ったなければなりません。

それで、駅に向かう時通り過ぎたパン屋に戻りパンをいくつか買いました。
あまりにも強い風は軽くない私の体が飛ばされるのではないかと
心配になるほど強かったです。

パンを買い、当分出発を待ったなければならない電車の中に座っていると
いつの間にか鼻水が出てきました。
なんだかんだ散々な半日でしたがなぜか心の中は平安でした。
不思議と怒りは出なかったのです。

正月、ずっと部屋にこもりテレビばかり見ていたので体の調子が悪くなり
右足の痛みが出て整形外科のリハビリにずっと行っています。
腰から来る痛みらしく知り合いからは出来る限り歩くように言われました。

寒いのでほとんど外出しないでいる私に神様は無理やりでも
歩かせるためにこんな事になったのかもしれません。
本当にありがた迷惑はこんなことでしょうか?
それは冗談で、その深い愛に感謝しています。

  

Posted by 青い鳥 at 13:42Comments(0)