2018年04月17日

説教ーイエスの弟子

説教ーイエスの弟子
去年の暮に図書館で1冊の本を借りました。
”モリー先生との火曜日”です。
203ページの本を読みながら何度も涙しました。
モリー先生とはアメリカのブランダイス大学の社会学教授だったモリー・シュワルツのことです。
この本を書いた人はミッチ・アルボムで、昔モリー・シュワルツ教授の教え子でした。
彼が大学を卒業してから16年ぶりにモリー・シュワルツ先生に再会します。
モリー先生は難病ALSにかかっていました。
この事をテレビで知り16年ぶりにモリー・シュワルツ先生に会いに行きます。
それから、毎週火曜日、モリー・シュワルツの自宅を訪ねました。
それは、だった一人だけの学生のために開かれた”最後の授業”でした。

その授業はモリー・シュワルツが死ぬまで14回に至りました。
人生について、死やまた様々なことについてモリー・シュワルツは語りました。
それを弟子である著者が本として出版したのが”モリー先生との火曜日”です。

一人、二人と私の周りの人がこの世を去っています。
そして、私も死について真剣に考えるようになっています。
死は私達が必ず迎える問題です。
死で人生は終わります。 しかし、モリー先生は本の中でこう言っています。
”死で人生は終わる、しかし、つながりは終わらない。
人間はお互いに愛し合える限りまたその愛し合った気持ちを覚えている限り
死んでも本当に行ってしまうことはない。
作り出した愛はすべてそのまま残っている。
思い出はすべてそのまま残っている。
死んでも生き続けるんだ。
この世にいる間に触れた人、育てたすべての心の中に。”

それでは、今日の聖書箇所に移ります。
ヨハネの福音書の13章の34,35節です。
”あなたがたに新しい戒を与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたが
わたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。”

ヨハネの福音書はイエス様の働きを記録した4つの福音書の中の一つです。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネはそれぞれ違う目線でイエスさまを書いています。
ユダヤ人を対象にしたマタイの福音書、人の子であるイエスを描いたルカの福音書、
そして、神の子であるキリストを強調したヨハネの福音書です。

ヨハネは”イエスが愛された弟子”として表現するほどイエス様と親しい弟子でした。
ガリラヤのかなり裕福な漁師の家の息子でもあります。
イエス様の12弟子の中で唯一自分の寿命を全うした人でもあります。
ヨハネはイエス様から”雷の子”と呼ばれるほど気性の激しい人物でした。
しかし、彼は後に”愛の使徒”として呼ばれるようになります。

ヨハネの福音書13章にはイエス様が十字架に掛かる前に示された愛の模範を伝えています。
それではヨハネの福音書13章の1節から17節を読みます。
さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
”夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、
イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、
ご自分が父から来て父に行くことを知られ、
夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、
ふき始められた。

こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。
「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。
イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが
、あとでわかるようになります。

ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。
イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。
シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。
イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。
全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。
イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。
と言われたのである。

イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。
「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。
わたしはそのような者だからです。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、
あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、
わたしはあなたがたに模範を示したのです。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、
遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。
あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、
あなたがたは祝福されるのです。”

この世を去って父の身元に行くべき時が来たことをイエス様は知りました。
それは、十字架の死を意味します。
そしてイエス様は自分が愛した弟子たちにその愛を残ることろなく示されたと
聖書は記録しています。

イエス様と弟子たちとの最後の夕食が終わってからでした。
イエス様は夕食の席から立ち上がりました。上着を脱ぎ、手ぬぐいを撮って腰にまといました。
そして、たらいに水を入れ、一人ずつ弟子たちの足を洗いました。
それから、腰にまとっていた手ぬぐいで拭きました。
シモン・ペテロは自分の足を洗おうとするイエス様にあまりにも申し訳ないので
断ろうとします。

イエス様が弟子たちの足を洗ったことをまねして時々キリスト教の集会や
クリスチャン家庭でもこの儀式を行うことがあります。
その時、いつも人々はこみ上げる涙と感動を覚えると聞きます。

イエス様の時代、お客様や主人の足を洗うのは奴隷の仕事だと聞いています。
しかし、イエス様は先生だったのに弟子たちの足を洗ってのです。
人の足を洗うとき私達はどのような姿勢を取るのでしょうか?
必ず身を低くしなければなりません。
また、足は常に汚れているとことです。
その足を洗うことは謙遜な気持ちと心がなければできないことです。
そんな事をイエス様は自ら行いました。
そして、”主であり師である私があなた方の足を洗ったのですから
あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。”と弟子たちに言いました。

イエス様が初めての奇跡を行ったのはガリラヤのガナでした。
結婚式がありイエス様と弟子たちやイエス様の母であるマリヤも参加しました。
結婚式に来た人々に出すぶどう酒がなくなったとき、イエス様は水をぶどうに変えたのです。

砂ホコリが多くて暑いイスラエルでは足はいつもホコリで汚れます。
そして、各家庭ではその足を洗うために水瓶がありました。
お客様が来たらその足を洗うのは奴隷の仕事でした。
ガナでの結婚式にぶどう酒がになった水こそその清めのしきたりに使うための水だったのです。

汚くなった足をきれいに洗うために私達はその相手の汚れを触らなければなりません。
そして、その汚れがなくなるまで丁寧に洗わなければなりません。
濡れた足をタオルで拭いてきれいになるまでへりくだった姿勢のままいなければなりません。
そのようなことをイエス様は自らしました。誰かに頼まれても命令されてもいません。
イエス様はただ、自分が愛した人々に自分の愛を示し、
弟子たちもそのように生きるためにしたのです。

イエス様が選び、ともに神様の働きをし、使徒として任命したのが12人の弟子でした。
その12人の弟子の足を一人ずつ洗いました。
その中には自分を裏切った弟子、イスカリオテのユダもいました。
残り11人の弟子さえもイエス様が人々に囚われていったときすべて逃げたのでした。
しかし、イエス様がそんな弟子たちの弱さや裏切りをただ、愛を持って仕えました。

”愛の章”と呼ばれる第一コリント13章には愛についてこのように語っています。
”愛は 寬容であり, 愛は 親切です. また 人をねたみません. 愛は 自慢せず, 高慢になりません.
礼儀に 反することをせず, 自分の 利益を 求めず, 怒らず, 人のした 惡を 思わず,
不正を 喜ばずに 眞理を 喜びます.
すべてをがまんし, すべてを 信じ, すべてを 期待し, すべてを 耐え 忍びます.”

相手の足を洗うことは人の咎や弱さなど受け入れることのできない様々な事を許すことです。
それが愛することでありイエスの弟子と呼ばれることです。互いの間に愛があるとき、
それによってすべての人がイエスの弟子として認めるようになるとイエス様は言っています。
また、愛することを新しい戒めとして私達に与えているのです。

でも私達は今それを実践しているでしょうか?
家族さえもなかなか愛せずにいるのです。
傷つけた言葉をいつまでも覚えて許そうとしないのです。
相手の過ちや弱さを受け入れようとしません。
ときには深まった溝で二度ともとの関係に戻れなくなった人々もいます。

しかし、イエス様はこの世を去るその瞬間まで人々を愛し続けました。
”十字架だ、十字架につけろ”と自分を死に追いやった人々にさえもイエス様は愛しました。
十字架につけられ死にゆく時にもイエス様はこう祈っています。
”父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。”

自分を迫害し苦しめた人々を恨むより彼らの咎や過ちを許すように神様に祈っているのです。
これこそ、愛の完成ではないでしょうか?
命を捨ててまで積み荷とである私達を愛したイエス様の十字架n死こそ
永遠の命を与えるための犠牲であり究極的な愛だったのです。

最後の”モリー先生との火曜日”に載っていた一つのエピソードをご紹介します。
弟子であったミッチ・アルボムはモリー先生が死ぬまで毎週火曜日
モリー先生の自宅を訪問しました。
そして、人生について、行き方について様々な話を聞きました。
そんなある日、ミッチ・アルボムは部屋の橋のある高い棚の上に飾ってあった
胸像について聞きました。
40代のモリーの姿を刻んだブロンズ像でした。
それは、モリー先生の友達だったノーマンという人が作ったものでした。
30年前に友達ノーマンが自分の家にモリー先生をまねいて何週間もかけて
その胸像を作ってくれたのです。
しかし、あることを栄に二人の友情は終わりました。

モリーの妻が大変な手術を受けるようになったとき、友達だったノーマンは
電話一本くれず見舞いにも来ませんでした。
それから、2,3回ノーマンと顔を合わせる機会がありました。
ノーマンはその度仲直りしようとしましたがモリー先生は許しませんでした。
その弁解に満足できなかったのです。
許すにはあまりにもプライドが高かったのです。

モリー先生は難病にかかる数年前に友達だったノーマンは癌になりました。
しかし、モーリは最後までノーマンのことが許されず見舞いにも行かず
仲直りすることなくノーマンはなくなりました。

モリーはそのことがどれほど辛く後悔しているかと涙を流しながら
ミッチ・アルボムにこう言ったのです。
”死ぬ前に人を許せ、自分を許せ、やらなかった全てについて、
やるべきなのにやらなかったことすべてについて自分もゆるせ”

過ぎたことをいつまでくよくよ悔やんでも始まりません。
仲直りすること、自分とそれから周囲の全てと仲直りしなければなりません。
人は生きている間に色々な過ちを犯します。
自分が犯した過ちも他人から受けた過ちも許さなければなりません。
人生はあまりにも短かく、いつまでも時間は待ってはくれません。

約2千年前にイスラエルの小さい町で生まれ育ったイエスさまは33年の短い人生を生きました。
イエス様の人生は十字架の死で終わりました。
しかし、今もその愛は人類に繋がれています。
罪人である私達を救うために流した血は今も私達にその愛を伝えています。

そして、罪赦されたイエス様の弟子として私達はその愛を実行して生きるものになりましょう。
イエス様が弟子たちの汚れた足を洗い、仕えたようにお互いの弱さを許すものになりましょう。
そして、私達の愛によって人々からイエスの弟子であると認められる存在になりましょう。

愛することができる今、許すことができる今、お互いを愛し、許しましょう。
自分を許し、他人を許しましょう。
お互い愛することでイエス様の弟子になりましょう。




  

Posted by 青い鳥 at 13:28Comments(0)説教