2019年05月26日

本ーLINEで子供がバカになる


本ーLINEで子供がバカになる
ほぼ当たり前のように家には固定電話があり、
街には公衆電話が設置されていた時代がありました。
インターネットのない時代に”電話は用件だけ簡単に”
というのがスローガンのように言われました。

海で隔てられた親子が手紙以外に声を聞き、話ができるのは電話だけでした。
異国の地で寂しい時いつも母に国際電話をかけました。
電話ボックスの中で公衆電話から小銭が落ちる音が気になり
早々と電話を切ったものです。

毎月数千円も費やしててテレホンカードを買い
街角の電話ボックスでカート電話を使っていた事が
今は懐かしい思い出になりました。

驚くことに今は一人1台の携帯電話が当たり前のように使われ
下手したら2,3台の電話を使い分けている人もいるようです。

ビジネスマンが仕事のために使っていた携帯電話は
今は大人や若者だけでなく子供までが持つようになりました。
子どもたちに連絡がとれるように、または安全の理由などで
親が自ら子供に携帯電話を持たしているそうです。

今はカラケーも死語に近い状態ではないでしょうか?
ほぼスマホを手にして,電車の中でもホームの中でも
歩きながらも携帯を片手にしている人々を目にするようになりました。

日に日に全世界で作られる様々なアプリで
携帯電話、スマホを手にしたら退屈する時間は
永遠に来ない気がします。

時々、色々なアプリを試しては削除しています。
そして、スマホを使ってから一番先にインストールして
ずっと愛用しているのが無料電話アプリ、ラインとカカオトークです。

インターネットが繋がれた環境ではスマホ同士でアプリを
通して無料で電話ができる時代を私達は生きています。
ラインやカカオトークなど自分の個人情報を担保にして
電話料金を気にしないで長電話ができます。

便利なアプリのおかげでいつでも声だけではなく
お互いの顔を見て電話ができます。
素晴らし世界を生きています。

それとは裏腹に、そんなアプリであるラインを使っている
子どもたちの世界で起きている気になる現状について
書かれている新書を1冊読み、心が騒いでいます。
矢野耕平さんが書いた”LINEで子供がバカになる”という本です。

いま日本では10代の半数以上がラインを使っていると著者は言います。
そして、広がるスマホ依存症、短文入力で接続詞が消失している日本語への懸念、
敬語が使えない、失われる母語の力について著者はとても心配しています。
最近の中高生の中には課題作文の中で堂々と顔文字と絵文字を
書き込む子供がいると本では書いていました。

人間は言葉で思考する動物で、言葉を用いず深く物事を考えることはできないと言います。
言葉が豊かな人は複層的な思考回路を物事に処することができるので
手持ちの語彙が貧困であれば物事を浅いレベルでしか捉えることが
できなくなってしまうようです。

それを一層加速化しているのがラインであると著者は様々な事例を通して説明します。
自分の感情を絵で表すスタンプ、予測変換機能という便利な機能があります。
入力の手間を省くため最近入力した文面をすることで次に来る可能性の高い
フーレズをを用意してくれるのです。
一方で、いつも使う単語だけになってしまう可能性があります。

ラインのチャット機能では1回の発信にスピーディーさが求められ
この予測変換機能を多用するようになるます。
それで、漢字が書けない、思い出せない人々が増えているそうです。

グループ機能の閉鎖性のせいで内輪の言語ばかり用いるようになる、
言葉がどんどん削ぎ落とされていくと言います。
第三者を意識して物事を丁寧に説明する必要がない、
また、1回の発信にスピーディーさが求められるので
文章を作成ぜず文ばかりを作成すると言います。
それで、前後の文脈を考えてといういわゆる論理的思考力を
培うことができなくなる可能性が高くなります。

携帯電話が普及する中で友人の家へ電話をかける機会が殆どなくなったので
子どもたちは敬語を使う機会もなく、敬語運用能力にも
大きな影響力が現れていると言います。
自分の口から新しい言単語を発する機会を奪われてしまっているのです。

語彙力が貧困であればあるほどそれだけ物事を単純にしか
考察できない思考回路を子供は持つようになります。
しかし、残念ながらますますそんな子供が増えていくでしょう。

便利さに引き換えで私達が失っていくものは何でしょうか?
もしかしてとてつもないほど大事で取り返すことのできないものかもしれません。
その危険性を常に意識してそれに流されないように努めて行く知恵が
必要な時代を私達は生きています。
  

Posted by 青い鳥 at 20:59Comments(0)

2019年05月20日

優先座席の人々

優先座席の人々
世の中は連休で賑わう中、私は7日から10日まで開かれた
ヘブライ語の特別講義に参加しました。
ヘブライ語に興味を持ったのは神学校へ入学してからです。
授業で聖書を本格的に学ぶ中で翻訳の限界をしり
いつか聖書を原語で読みたいと思うようになりました。

聖書は大きく旧約聖書と新約聖書で分けることができます。
全部で66巻でできている聖書はもともとヘブライ語と
ギリシャ語で書かれたものです。
それを世界の各国語で翻訳して使っています。

しかし、いくら上手に翻訳しても微妙な違いや感じを
うまく表現することは難しいです。
その埋まらない差がもどかしく、日に日に原語で
聖書を読みたいよいう気持ちが募っていました。

そんなか、幸いにも神学大学でヘブライ語を学ぶ機会が訪れました。
それでヘブライ語の世界に入っていきました。
文字の書く方向も右から左で、なかなか馴染めない発声まで
いろいろと苦労しました。
ヘブライ語の文字22字をほぼ1年かけてやっと覚えました。
さて、いつ聖書を原語でスラスラ読める日が訪れるでしょう?

連休、ヘブライ語の特別講座に参加するために
普段あまり利用しない朝の電車に乗りました。
出勤ラッシュを少し超えた時間はそんなに窮屈な感じはなく
席は全部埋まっていて10数人が立っていました。

座ることができなかった私はスマホで語学講座でも
聞こうとしましたがイヤホンが見つからず吊り皮を持って
車両の中の人々をなんとなく見ていました。

優先座席の表示がはられた席を見ると6人の人が座っていました。
4人はスマホを見ていて、一人の中年の男性は新聞を広げていました。
20代に見える一人の若い女性は目を閉じていました。
そして、一番端っこに座ってスマホを見ている4、50代に見える
女性の前には70代後半に見える男性が杖を持ったまま立っていました。

しばらくそのおじさんを見ていましたが、
誰一人席を譲る人はいませんでした。
そして、幸いに優先座席の反対側に座っていた20代に見える
一人の女性がいじっていたスマホを持ったまま立ち上がり
その杖のおじさんに席を譲りました。
席を譲った人の座席は優先座席の表示はありませんでした。

いつから電車の一部の席を優先座席に指定し、表示をするように
なっているか私はわかりません。
優先座席を設けなくても誰かの助けに必要な人々に
手を貸したり席を譲ったりした時代はあったでしょう。

しかし、いくら優先座席の表紙を貼ったり、案内放送を流したり
弱者のために席を譲るように促してもそれを実行する人々に
思いやりの心がなければ意味のないことです。

思いやりがなくなっていく社会はどれほど生き難いでしょうか?
それを考えるだけでも心が寂しくなります。
弱者への配慮がない社会、それはどれほどぎすぎすするでしょう。

そして、人々への関心が薄れ、また周りに気を使う気持ちさえ
忘れさせる一つの大きな原因がスマホではないかと思います。
年々スマホを手にしている人の数が増えていきます。

朝、目を覚まして眠りにつくまで人はスマホから手を離せません。
時には階段を登りながら、降りながらスマホをいじっている人がいます。
自転車を漕ぎながらスマホを見ていた人を見てゾッとしたこともあります。
車が頻繁に走っている道路の脇道を歩きながら、横断歩道を渡りながら
スマホから目を離せない人も見ました。

そんな人々は電車に乗ると、とにかく席を確保することに必死です。
スマホを使うとき両手を自由に使えるからです。
席に座った瞬間、自分の眼の前に誰が立っていようとも気がづきません。
自分の世界に完全にハマっているからです。

愛が冷めていく時代を私達は生きています。
思いやりが消えていく時代を迎えています。
しかし、そんな時代の中に埋まらないように
私達は努力しなければなりません。

優先座席だから席を譲るのではなく
すべての席は優先座席であり、弱者への気配りと思いやりで
親切な気持ちを表す私達でありたいです。

旧約聖書のレビ記ではこのような聖書箇所があります。
レビ記19章32節
あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、
またあなたの神を恐れなければならない。
私は主である。


  

Posted by 青い鳥 at 20:26Comments(0)